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1947年のプロ野球ニュース 日本球界初の沢村賞受賞者・別所毅彦のモーレツ物語

2019/1/25  プロ野球ニュース: さん

昭和22年のプロ野球は若林忠志選手兼任監督率いる阪神が79勝37敗・勝率6割8分1厘で2位の中部日本に12.5ゲームもの大差をつけて独走で優勝した。
 対する巨人は56勝59敗と初めて5割を切り、さらには球団結成後初めてのBクラスに転落した。
 
 前年優勝の南海も3位に沈んだ。正確にはグレードリンクだったのだが、名前が良くないということで親会社・南海電鉄内の公募が行われ、1947年5月3日より、「南海ホークス」というチーム名になった。
 この年は清水秀雄が中部日本に移籍した穴が生まれなかったが、ニューヒーローが誕生した。別所毅彦である。
 別所毅彦は、1941年の春の甲子園センバツ大会に滝川中学のエースとして出場した際、脱臼で左肩を三角巾でつり、まさに右腕一本の奮闘ぶりは「泣くな別所。センバツの華」と称賛された。
 まさに別所の抜群の体力と右腕の強靭ぶりを示すエピソードといえるだろう。

 1942年に南海に入団した別所は、当時の主砲・岩本義行に尋ねられた。
「今日はカーブを何球放った?」
別所は少し考えてからこう答えた。
「10球ぐらいでしょうか」
すると、岩本義行は「ふん」と鼻で笑いながら
「お前はまだまだ二流じゃ。一流投手は1試合にカーブは5球まで。あとはすべてストレートで打者をねじ伏せるんじゃ。まだまだ修行が足りん!」
 別所はあっけにとられたが別所自身は、ストレートで抑えることにさらに磨きをかけた。

 そしてこの1947年、別所は30勝を挙げている。55試合に登板し、完投数は47.なんと448イニングと3分1を投げる物凄い記録を残している。投手は先発完投が条件、リリーフ投手はワンランクもツーランクも下という当時の感覚でも47完投は桁違いである。
 スタルヒン41、藤本英雄39、野口二郎41などの数字と比較しても突出しているのが分かる。
 そして積み上げた310勝という大記録はスタルヒンの300勝を超え、金田正一の400勝という記録で打ち破られるまで、日本最大勝ち星数の第1位であった。

 そしてこの年から読売新聞が沢村栄治の栄誉と功績を称えて制定した「沢村賞」の初代受賞者にはこの別所毅彦が選ばれた。

 そんな別所が最も速いといったのがスタルヒンと金田正一であったという。2人とも160キロは優に出ていたという。
 
 余談であるが、当時皇太子殿下であった今上天皇は別所投手の大ファンであったことを付記する。

昭和22年順位表
      試合 勝利数 敗戦数 引き分け
①阪  神 119 79  37   3
②中部日本 119 67  50   2
③南  海 119 59  55   5
④阪  急 119 58  57   4
⑤巨  人 119 56  59   4
⑥東  急 119 51  65   3
⑦太  陽 119 50  64   5
⑧金  星 119 41  74   4
(文責:定年生活事務局)
参考文献:豪球列伝(1986 文芸春秋社)



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