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1950年のプロ野球ニュース 日本プロ野球初の日本シリーズ第1戦 43歳の老雄・若林忠志の好投が「パ・リーグ」に日本一をもたらした

2019/3/10  プロ野球ニュース: さん

戦後復活したプロ野球は一大娯楽産業へと発展。1948年には半数以上の球団が黒字化し、1949年には全球団が黒字化するという試算が出た。ここに企業側にもプロ野球に参入すると事業として成立するという想いが強まり、参入希望会社が相次いだ。
1949年に正力松太郎は、アメリカのメジャーリーグに倣った2リーグ制を意見として表明。ここに、毎日新聞(参入)、近畿日本鉄道(参入)、京都新聞(断念)、熊谷組(断念)、日本国有鉄道(参入)、松竹(参入)、大洋漁業(参入)、名古屋鉄道(断念)、西日本鉄道(参入)、西日本新聞(参入)、西武鉄道(後にライオンズを買収)、中国新聞(広島の後援となる)、星野組(断念)、小田急電鉄(断念)、リッカーミシン(断念)などが参入を希望した。

正力は読売を中心とするリーグとは異なるリーグの旗印に読売新聞のライバル紙である毎日新聞社に白羽の矢を立てた。ここに毎日新聞は毎日オリオンズを結成。近鉄、阪急、南海、西鉄、東急といった電鉄系企業を中心にパシフィックリーグ(太平洋野球連盟)を結成した。ここに大映も加入し、7球団でスタートすることになった。

一方、読売側は中日、国鉄、松竹、大洋、西日本、広島によるセントラルリーグ(セントラル野球連盟)を結成した。
「おや?」と思われた方。そう、阪神タイガースの帰属が決まらなかった。当時、阪神は他の電鉄系企業とともに、パ・リーグに加盟するはずであった。しかし「巨人・阪神」の黄金カードの維持を好餌とする読売側の説得で土壇場で寝返り、電鉄系で唯一、セントラルに加盟。

しかし、阪神の主力選手はこれの猛反発。選手兼任監督の若林忠志を筆頭に、土井垣武、別当薫、本堂保次、呉昌征ら主力が相次いで、新球団・毎日オリオンズへと去った。これに対し、セントラル側も東急の主力を引き抜くなど、切り取り強盗よろしく状態と相成った。

 ペナントレースはこの阪神脱出組が大活躍した毎日が81勝34敗と独走。2位南海に15ゲームの大差をつけて、優勝した。
 一方のセントラルリーグも同じく新球団で、歌舞伎座や映画会社で有名な松竹が京都の衣笠球場を本拠地とし、成績も98勝35敗と独走。2位中日に9ゲームの大差をつけて、初優勝を飾った。

(歌舞伎座で有名な松竹がプロ野球球団を所有していた時期があった)

 こうして初めての日本型ワールドシリーズ即ち日本シリーズが1950年11月22日に神宮球場で第1戦が行われることになった。
まだ選手の引き抜きから遺恨が残り、オールスターゲームすら行われなかったこの年、日本シリーズは両リーグの代表として決して負けられない殺気が両軍ともに漲っていた。

 問題の第1戦。毎日はなんと、このシーズン1勝4敗の43歳・若林忠志を立てた。阪神から移籍した若林の肩書は「監督兼投手」。いわゆる選手兼任監督に見えるが、実際は若林より年上の48歳・湯浅禎夫が「総監督兼投手」として登録されており、監督が2人いる状態。寄せ集めチームのバランスを取る苦肉の策で、実際は湯浅総監督が指揮を執っていた。

 若林は7月頃から実戦を離れ、一人ランニングに打ち込んでいた。そしてシーズン終盤の10月中頃
「選手権の第1戦を僕に任せてくれませんか。」
と直訴したのである。尋常でないプレッシャーがかかる第1戦のマウンドを誰に任せるか迷った湯浅は
「よし、任せる」
と若林の戦前・戦後のプロ野球界を生き抜いた経験に託すことにした。この頃、湯浅自身が同じ48歳の阪急・浜崎真二と投げ合う「合計年齢・96歳対決」が話題になり、この奇想天外の選手起用が表に出ることはなかった。

 実は若林忠志は1か月以上前から、松竹ロビンスの強力打線を分析。総監督の湯浅と対策を練った。しかし、第1球目をストライクで行くか、ボールで行くかが決まらなかった。松竹のトップバッター金山次郎が気性の激しい性格であることから「ボール」で行くことが決まると、若林はようやく熟睡出来たという。

 そして、11月22日の第1戦。神宮球場でプレーボール。1回裏の松竹の攻撃。1番・金山次郎への初球は予定通りの臭いコースへのボール球。難なく三者凡退に退けると、2回表に毎日は片岡博国のタイムリーで1点を先制。焦る松竹は若林の老獪なピッチングに翻弄されていく。


(記念すべき、日本シリーズ第1戦が行われた神宮球場)

 8回裏に三村勲のタイムリーで同点。9回裏にはノーアウト2塁でサヨナラのチャンスを迎える。ここでなんと、二塁ランナーの岩本が小西監督からのサインもないのに、無謀にも三塁に突入。老練な若林・土井垣のバッテリーがこれを見逃すはずもなく、難なくタッチアウト。「史上最大の猪突」と揶揄された。
 
 延長に入り、12回表、二死満塁から伊藤庄七のテキサスヒットで毎日が、2点を勝ち越す。12回裏。松竹の猛反撃が始まり、1点を返し、さらにはこの年39勝を挙げたエース・真田重蔵まで代打に出すも1点及ばず。若林が161球の完投で3対2で毎日が緒戦を物にした。

 第2戦は後楽園で行われ、5対1で毎日。第3戦は甲子園球場で行われ、7対6で松竹。第4戦は西宮球場で行われ、5対3で松竹。第5戦は中日球場で行われ、3対2で毎日がそれぞれ勝利。
 第6戦は、11月28日に大阪球場で行われ、8対7で毎日が勝利し、栄えある初代日本一に輝いた。

 一方、敗れた松竹は小西得郎監督の采配へ非難が集中。クビが飛ぶが翌年から成績も急降下。2年後の1952年には34勝84敗の最下位に終わると、大洋と合併。松竹はわずか3年で野球から撤退した。

1950年日本シリーズ第1戦(1950年11月22日 於:神宮球場)
観衆:23,018人
毎 日 010 000 000 002 3
松 竹 000 000 010 001 2
勝利投手:若林(1勝)
敗戦投手:大島(1敗)

(文責:定年生活事務局)
参考文献:『熱闘!プロ野球30番勝負』(1990 文芸春秋)



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