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1951年のプロ野球ニュース 南海のチェーンエース 江藤正の輝き。勝率7割5分での南海ホークス優勝は未だに破られない金字塔!

2019/3/25  プロ野球ニュース: さん

 
チェーンエースという言葉をご存じだろうか?1948年オフにエース・別所を巨人に引き抜かれた南海は、絶対的なエースが不在になった。
 今以上にエースが絶対的な時代。エースはいまから見れば無茶と燃える登板指令を寡黙にこなし、25勝から30勝前後を挙げていった。
 そんなエースが引き抜かれた穴はそう簡単に埋まるものではない。実は、南海はこの別所が引き抜かれたと、1958年に長嶋茂雄らとともに立教黄金時代を築いた杉浦忠が入団するまで、絶対的なエースが不在であった。
 その間、武末悉昌、江藤正、服部武夫、大神武俊、宅和本司、中村大成、木村保という投手がまさに1年ごとにエースを務め、1950年から58年までの9年間で4階のリーグ優勝を南海にもたらした。これを「南海のチェーンエース」と呼ぶのである。

 今回は江藤正投手にスポットライトを当ててお伝えしたいと思う。法政大学で南海・鶴岡監督の後輩にあたる江藤はノンプロの大洋漁業でエースとして活躍。別所がいなくなり、投手力の補強が急務だった南海・鶴岡監督からの誘いに「お世話になりますと」と二つ返事。

 ところが阪神・富樫球団代表がこれに横槍を入れて、もともと武末投手が南海に入る際に江藤投手は獲得しないという密約があったという・・・。
 もめにもめた江藤投手二重契約状態となり、南海に入団するも1年間の出場停止処分に。
 昭和24年のリーグ戦は出場できなかった。

 2リーグに分裂後の昭和25年は14勝9敗とエース格として活躍。翌昭和26年には、鶴岡監督が江藤投手にあるお守りを渡した…。

・お守りの力?24勝で南海の優勝に貢献

 抜群のストレートとコントールの良いカーブが持ち味の江藤投手の難点は気が弱いこと。昭和50年代に阪急・今井雄太郎投手が気の弱さを解消するためにビールを飲んで登板という逸話があるが、さすがに昭和20年代。それはご法度のようで、鶴岡監督は戦争中
部下が戦争に負けないお守りとして女性のヘア3本をお守りしていたことを思い出す。

 鶴岡監督は大阪ミナミ・宗右衛門町の女性芸者から「ヘア3本を頂きたい」と頭をさげた。
 これが効果てきめん。昭和26年はパ・リーグでほかに誰も20勝投手がいない中、江藤投手は24勝5敗と大車輪の活躍。南海は、9連勝が1回、8連勝が2回に、7連勝、6連勝もあり独走。2位に18.5ゲーム差でなんと、72昭和24敗の勝率7割5分という未だに破られることのない勝率で優勝したのである。

 優勝後、鶴岡監督は江藤投手を連れて女性芸者のところにお礼参りに行ったとか。
 かくして南海は2リーグ分裂後の初優勝を飾り、セ・リーグの覇者・水原巨人と激突。

・日本シリーズは惨敗。

 日本シリーズの第1戦は、江藤投手が先発するも、さすがに神通力が取れたか、コチコチとなり、5対0で敗戦。その後、あれよあれよと巨人が3連勝。第4戦こそ、南海は一矢報いたが、第5戦も巨人のエース・藤本英雄の前に沈黙。初めての巨人との日本シリーズは1勝4敗で苦杯を飲んだ。

 江藤投手は翌、昭和27年こそ11勝を挙げるもその後は、肩を壊し、昭和29年には新生球団・高橋ユニオンズに移籍。昭和30年に引退した。
 生涯で挙げた白星は50勝。そのうちの半分近い24勝をこの昭和26年で挙げた江藤投手もまたエース不在で苦闘する名門・南海を支えたチェーンエースだった。

【昭和26年 パ・リーグ順位表】
① 南 海 72勝24敗8引き分け  勝率.750
② 西 鉄 53勝42敗10引き分け 勝率.558
③ 毎 日 54勝51敗5引き分け  勝率.514
④ 大 映 41勝52敗8引き分け  勝率.441
⑤ 阪 急 37勝51敗8引き分け  勝率.420
⑥ 東 急 38勝56敗8引き分け  勝率.404
⑦ 近 鉄 37勝56敗5引き分け  勝率.398

【昭和26年日本シリーズ結果】
第1戦 ●南海0-5巨人○
第2戦 ●南海0-7巨人○
第3戦 ●南海1-3巨人○
第4戦 ○南海4-3巨人●
第5戦 ●南海2-8巨人○

(文責:定年生活事務局)
参考文献;プロ野球ヒーロー伝説(1992 文芸春秋)



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