1952年のプロ野球ニュース ノーゲームを狙った毎日・湯浅監督のクビが飛んだ平和台事件
2019/4/10
1952年7月16日の平和台球場は、今にも泣きだしそうな天候であった。降ると見せかけては止み、止むと見せかけては降る不穏な天候。まだナイター設備のない平和台球場。
夏の夕方。日が暮れるのが遅い福岡地方とはいえ、プレーボールが16時55分。既に悪い予感がしそうである。そのような西鉄ライオンズ対毎日オリオンズの12回戦が始まった。初回の攻防が終わると、雨が降り出し、15分の中断。試合が再開し、3回裏に西鉄が4点を入れると、再び雨が激しくなり、中断。
血の気の多い博多っ子。西鉄一辺倒で試合再開を求め始めた。
この日の球審の浜崎審判が試合を再開したのは、18時45分。もう、9回どころか、5回終了の試合成立すら危うい状況になった。1950年の日本シリーズで毎日オリオンズを初代王者に導いた湯浅監督(肩書は総監督)はこの日の日没が、19時29分であることを確認している。・毎日サイドの露骨な遅延作戦が始まった…。
4回表に3点を返すも同点に出来なかった毎日サイドはこの日をノーゲームにすべく露骨な遅延作戦に出た。スパイクのひもを何度も結びなおしたり、無駄な牽制、タイムの要求などありとあらゆる手段で露骨な時間稼ぎ。
その間も5点を加えた西鉄は9対4となり、5回表が終われば試合は成立予定であった。・湯浅監督はノーゲームを主張し、観衆が暴徒化・・・
5回表、毎日の攻撃になると選手が出てこない。日没まであと数分。湯浅監督はノーゲームを主張。審判団の説得に応じようとしない。これについに西鉄ファンが激怒。1000人以上のファンがグランドに下りて毎日の選手を殴る蹴るとついに暴徒化。とうとう、福岡市警察から警官300名が出動する事態になった。
毎日の選手は警官の護衛のもと、ジープで平和台球場を後にせざるを得ない事態になった。さらに逃げ遅れた湯浅監督は場内放送でファンに謝罪。ここにようやく事態は沈静化したのである。
西鉄側は放棄試合を主張したが審判はノーゲームと判断。毎日球団には、50,000円、湯浅監督に10,000円、浜崎球審に3,000円の罰金が課された。・湯浅監督は解任
事態を重く見た親会社の毎日新聞社は今後の不買運動を恐れ、7月27日に湯浅監督の解任を発表、併せて若林忠志選手兼任監督も二軍監督への降格を発表した。
湯浅禎夫氏は、1955年に毎日オリオンズヘッドコーチとして復帰したが、プロ・アマ両野球界に功績を残し、監督として日本一を達成したにもかかわらず野球殿堂入りしていないのは、この平和台事件の影響が大きいとされている。(文責:定年生活事務局)
参考文献:「プロ野球乱闘史 暴れん坊列伝」(1988 文芸春秋)(フジテレビの動画見放題サービスでは東京ヤクルトの試合も定額料金で見放題!お申し込みは以下から)
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