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シリーズ お江の史跡を歩く(1) 清水克悦

2011/6/30 

歴史ライターの清水克悦(かつよし)さんに、今年の大河ドラマでおなじみの「お江」の史跡を歩いてもらいました。
これから「お江」に出てきそうなスポットもご案内もできると思います。お楽しみに!

    

ところざわのゆり園から狭山不動寺へ

 

「ゆり園」のポスターが「今が見ごろです」と誘っている。このゆり園は、西武球場前駅に近い狭山不動寺の隣にある「ゆり園」である。私が知る限り、ここに勝る「ゆり園」はない。狭山不動寺には、増上寺から移築された「お江」の廟所の通用門がある。「また行ってみるか」そんな気になったのは、NHK大河ドラマ「江 姫たちの戦国」を観たからである。 

狭山不動寺へは、池袋駅から西武池袋線に乗り、西所沢駅で西武狭山線に乗り換え、終点の西武球場前駅で下車する。改札を出ると、西武ドームが左手にある。狭山不動寺とゆり園は右手。まず「ゆり園」へ向かう。ゆり園は、車道に架かる陸橋を越えたところ。ユネスコ村の跡地である。ユネスコ村はシニア世代の人なら、懐かしいだろう。私も中学校の遠足で、50年ほど前に行った記憶がある。今は自由に誰もが海外旅行できる時代だ。疑似体験では、物足りないし、満足しない。ユネスコ村の使命は終え、今は「ゆり園」。

定年後の生活|お江|ゆり園平成17年にオープンした。約3万㎡の自然林の中に、公称50種・45万株ものゆりが植栽されている。入園料は1000円。ゆりは6月中旬から7月初旬が見ごろ。山の起伏を利用して、観賞に耐えるよう計画的にゆりを植え、咲かせているのは見事だ。公称に偽りはない。どこを見渡しても、「ゆり、ゆり、ゆり」である。散策路は、咲いているゆりの間を縫って起伏を緩やかに上り下りする。約100mの「らくコース」があるが、シニア世代でも「自然散策コース」も1kmほどだから難なく散策できるだろう。
定年後の生活|お江|蕎麦
疲れたら、園内の売店には、「ゆり根の天ぷらざるそばセット」(1000円)などもあるから、ひと休みして、賞味してみるのもいいだろう。園内はカメラを構える中高年の女性グループや熟年のカップルが多く、お互いモデルになっている姿は和やかだ。

定年生活|お江丁子門

隣の狭山不動寺は、駅の方には戻らずにスロープを下ると、「お江」の丁子門に近い。東京芝の増上寺の崇源院(お江の諡号(しごう))の廟所の通用門として、寛永9年(1632)にお江の長男の家光が建立した門で、国重要文化財。昔は日光の東照宮のような極彩色であったのだろうが、今は色も褪せている。野晒しなのが気になるが、重要文化財だ。保存に手抜かりはあるまい。

狭山不動寺には、丁子門のほかに、秀忠(台徳院)の廟所に建立されていた勅額門、御成門が増上寺から移築され、いずれも国重要文化財である。
定年生活|お江
定年生活|お江
勅額門(上)、御成門(下)

お江と秀忠の墓は増上寺にあるのに、なぜ狭山不動寺に、これら建造物があるのだろう。答えは簡単だ。戦災で荒廃した増上寺の徳川将軍霊廟敷地を買収し、西武グループの創設者の堤康次郎がホテルを建設する用地整備のため、昭和33年(1958)に将軍家墳墓を発掘改葬した際に、遺構や遺物を保存するため狭山不動寺を建立したからだ。そう考えれば、この地にあることも納得できる。

増上寺にあった夥しい数の石灯篭や唐金灯篭なども移築されている。旧井上薫邸にあった羅漢堂も狭山不動寺に移築されているが、羅漢堂の周囲に、全国の大名から献納された増上寺の唐金燈籠が夥しく並び、余りの数に燈籠の置場のように見えてしまう。文化財は、特に廟所の建造物は、本来あるべき場所にあることが好ましいが、いろいろの事情があったのだろう。狭山不動寺に移築された文化財は保存されていると考えていいだろう。狭山不動寺には増上寺だけではない、各地から移築された歴史的建造物が数棟ある。時間が許す限り、ゆっくり散策したい。

「ゆり園」の散策に1時間、狭山不動寺の散策に1時間も予定しておけば十分だろう。西武ドーム側には、「中国料理 獅子」があり、「ゆり弁当」(1500円)などが賞味できる。狭山不動寺は、ふだんは静かな境内で、数年前に訪れたときは、本堂横の石灯籠の陰から「たぬき」が出てきて、しばらく見詰め合ったこともある。

定年後の生活|お江

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お江とは

お江は、天正元年(1573)に浅井(あざい)長政の三女として生まれた。母は、織田信長の妹・市である。同年、長政が、信長と対立し、小谷城が攻め落とされ、浅井氏は滅亡するが、お江は、母の市や姉の茶々(淀殿)、初とともに救出され、信長の弟の信包(のぶかね)に預けられた。

天正10年(1582)に信長が明智光秀の謀反(本能寺の変)で横死した。織田家の後継者を決める清洲会議の頃、母の市は、秀吉と対立を深めていた柴田勝家と再婚し、勝家の居城である越前国北ノ庄城へ3姉妹を連れて移った。

天正11年(1583)、勝家は、賤ケ岳戦いで秀吉に敗れ、次いで北ノ庄城が落城した。市は自害するが、江は2人の姉・茶々、初とともに救出され秀吉に引き取られた。

天正14年(1586)、江が14歳のとき、織田信雄の懐柔をしようとする秀吉の意向で、信雄の家臣で、尾張大野城(愛知県常滑市)5万石の城主・佐治一成へ嫁がされた。しかし、一成は、秀吉が徳川家康・信雄連合軍を敵とした小牧・長久手の戦いで信雄に従っただけでなく、家康が三河に引揚げるとき渡し舟を調達する便宜を図ったことが秀吉の逆鱗に触れ、一成は、所領を没収され追放され、お江は離婚させられた。 

次にお江は、秀吉の甥・羽柴秀勝に嫁がされた。元禄元年(1592)に娘の完子(さだこ)が誕生したが、秀勝は、朝鮮出兵(文禄の役)のとき、巨済島(コジェド)で病死した。

3度目の結婚は、文禄4年(1595)、徳川家康の跡継ぎの秀忠である。お江は23才、秀忠は17才だった。10年後の慶長10年(1605)に秀忠は2代将軍の座に着いた。完子は、お江が秀忠に嫁いだときに淀殿の養女となり、関白・九条忠栄に嫁いでいる。秀忠との間には、2男5女を儲けた。豊臣秀頼に嫁いだ千姫、3代将軍となった家光、駿府城主となるが改易になった忠長、後水尾天皇の中宮として入内し、109代・明正天皇の母となった末娘の和子(まさこ)・東福門院がいる。お江は、寛永3年(1626)江戸城で54才の生涯を閉じた。諡号(しごう)は、「崇源院」。

お江の史跡を歩く

(2)家光の乳母・春日局の拝領地を歩く

(3)お江と秀忠の墓がある増上寺周辺を散策する

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