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1936年の プロ野球ニュース 初の王座決定シリーズ巨人対タイ ガース 沢村栄治と景浦将の対決は沢村に軍配!

2018/8/25 

 昭和9年12月26日に誕生した大日本東京野球倶楽部。今のジャイアンツである。その翌年、大阪に野球球団が誕生。アメリカのデトロイトにちなんで、タイガース。ここに伝統の巨人・阪神戦が誕生し、昭和11年には続々と誕生した新球団によって日本職業野球連盟が誕生。ペナントレースが始まった。
 といっても今のような総当たり制ではなく、お披露目を兼ねた東京、大阪、名古屋での三都大会というトーナメントや短いリーグ戦の勝ち点の合計によって優勝を決めた。
 巨人はこのシーズンでは優勝していない。巨人の総監督・市川忠男は巨人の弱体化を危惧し、監督を藤本定義に替えた。戦後、「神様・仏様・稲尾様」と投手の連投が崇められた昭和30年代に一早く、ローテーションを導入した当代きっての理論家である。
 その藤本は巨人を見て暗澹たる気持ちになった。
「いかん。目が死んでいる」
 そう、日本で最初に出来た巨人はまだ相手がなく、アメリカでの遠征を繰り返していた。
「俺たちは2度もアメリカに行った」
その自惚れがチームに蔓延していたのである。当時は公式戦の合間に定期戦があるのだが、夜になると宿舎から選手がいなくなる。皆、歓楽街に遊びに出たのだ。
「わしの片腕になってくれるものはおらんか」
 藤本は後輩に相談すると、紹介されたのは三原修であった。戦後、巨人の監督として戦後初の優勝を導き、西鉄、大洋を日本一に導いた名将である。
 三原自身、早稲田を卒業後、日本初の職業野球選手として巨人と契約していたが、当時は巨人を去っていた。藤本は成城の三原の自宅を3回も訪ねてついに口説き落とした。藤本監督、三原助監督の体制になった巨人は秋の猛練習を実施。ショート・白石敏男の血染めの捕球が伝説になった。こうした野手陣の猛練習に青ざめたエース・沢村栄治も心を入れ替え、秋の公式戦に突入。リーグ戦途中には、慶応出身のスター三塁手・水原茂も復帰。三塁・水原、遊撃・白石、二塁・三原と内野が固まった。ここに巨人は秋季リーグ戦を優勝したのである。今でこそ「打倒・巨人」という言葉が定着しているが、当時は「打倒・タイガース」が合言葉だったのである。
 そこで、行われたのが春季の優勝のタイガースとの3戦による優勝決定シリーズ。今の日本シリーズの原型といえるだろう。
 第1戦は1936年12月9日。天気は生憎の雨模様。場所は洲崎球場。今の東京都江東区東陽町辺りにあった球場である

 巨人の対戦相手のタイガースの主力は投手兼三塁手の景浦将。あの沢村栄治のドロップカーブを東京湾まで飛ばしたといわれるタイガースの4番でありエースである。
 第1戦はその景浦と沢村が先発した。
 好機は3回裏の巨人の攻撃でやってくる。9番沢村がショート内野安打で出塁すると、1番の三原はバットを握る両手に大きな隙間をあけてバットを強振した。こうでもしないと唸りを上げる景浦の豪球を打てないのである。
 二塁打となり、走者は三塁・二塁。バッターは2番の水原。藤本監督はスクイズが嫌いなことで知られているが、この日は水原にはスクイズを指示。雨でグランドがぬかるみ、2塁ランナーの三原まで生還。ツーランスクイズである。
 続く3番前川八郎はフォアボールで歩くと、4番中島治康の場面でワイルドピッチ。さらに藤本監督は4番の中島治康にもスクイズを命じた。
 戦後初の三冠王にも輝いた中島は「日本の本塁打王」というポスターが貼られるほどの不動の巨人の4番。今でいうと、ゴジラ・松井に長嶋監督がスクイズを命じるようなイメージか…。
 それぐらい、藤本監督は勝利に執念を燃やした。さらには阪神のエラーもあり、この回に一挙4点。
 4回表に景浦の3ランで反撃するも及ばず、この日は5対3で巨人が勝利した。
 第2戦はタイガースが一矢報いるも第3戦は、再び、沢村が好投し、巨人が初の日本一に輝いた。
 日本一の優勝祝賀会は赤坂の料亭「幸楽」で行われた。この年に起きた2・26事件で青年将兵が立てこもった場所である。軍靴は確実に迫っていた。太平洋戦争で共に戦死した沢村も景浦も短い青春であった・・・。
 ちなみに、この日の観衆は入場料1円の内野席に238人、50銭の外野席が1630人の観衆がこのゲームを見守った。

1936年 12月9日 洲崎球場 巨人対タイガース王座決定戦 第1戦
(観衆1868人)
タイガース 000 300 000 3
巨   人 004 000 10× 5
勝利投手:沢村栄治
敗戦投手:景浦将
本塁打:景浦1号

(文責:定年生活事務局)