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定年生活が選ぶ 1939年のプロ野球ニュース 南海ホークス誕生 オフには親分・鶴岡一人入団しいきなり本塁打王に。南海ホークスの歴史は鶴岡監督の歴史そのものである。

2018/10/10 

 1938年3月29日、日本職業野球連盟総会で「南海野球株式会社」の加盟が承認された。南海ホークスの誕生である。これによりリーグは9球団制になった。とはいえ、南海のスタートは決して順調とは言えなかった。
 当初は「しばらくチーム力を点検してみよう」ということで公式戦参加は秋の公式戦からになった。慶応大学出身の高須一雄監督以下、22名の選手でスタート。
 初年度は11勝26敗5分け。9チーム中、8位であった。

 南海ホークスといえば、「大阪球場」のイメージが強いが、大阪球場が出来たのは戦後である。参入当時は南海の社有地である・高野線・中百舌鳥駅の南東に所有していた社有地(約180,000m2)に建設した総合運動場「中百舌鳥球場」を本拠地としていた。
 のちに、南海の二軍の球場として多くの若鷹が巣立った球場である。

 この年のオフ、一人の名選手いや名監督が入団する。法政大学の名三塁手として鳴らした鶴岡一人である。後に「親分」、「ミスターホークス」の愛称で親しまれ、戦後間もない1946年から23年間、南海の監督を務め、戦歴の1773勝(1140敗)は今でも不世出の大記録である。
 また、勝率.609も唯一の勝率6割監督であり、23年間の監督生活で南海を11度のリーグ優勝、2度の日本一にも導いた。

 そんな鶴岡の戦前の南海在籍はこの1939年の1年間。それでもいきなり10本塁打を放ち、本塁打王に。チームもこの年は5位に浮上し、健闘したシーズンとなった。

 が、鶴岡はこの1年で応招。鶴岡は陸軍高射砲連隊へ入隊し、5年間もの長きに渡って従軍し、日本内地を転々とした。
8月の終戦直前に神風特攻隊の出撃地となった鹿児島県・知覧町の陸軍知覧航空隊機関砲中隊長を務め、低空で飛んでくるグラマンに応戦した。この時に中隊長として200名の部下を率いた経験が、後の「指揮官哲学」を生んだと言われている。即ち、人を威圧するのは、怒鳴るだけではない…と。
 鶴岡監督は判定に不服があってもほとんど抗議しない監督といわれる。仮に不服があっても審判の耳元で「ヨッシャ、次は頼むでぇ」・・・。
 これで終わりである。審判だって人間、間違うこともある。そんなときにはこの一言で十分だったのだ。

 戦後、監督に就任すると現代野球にも通ずるスタイルを既に開始している。そのいくつかをご紹介すると、
1 尾張久次スコアラーを中心としたスコアラー制の導入。事前に対戦相手のデータを調べることは鶴岡監督が初めてといわれている。
2 南海士建野球部と称する二軍をいち早く導入し、社会人チームとの交流戦をスタート。現在のファーム(二軍)のモデルになったといわれる。
3 今でいうゼネラルマネージャーを兼ねており、野村克也や広瀬淑功、杉浦忠、穴吹義雄といったスター選手の獲得したことは有名であるが、さらには、人脈を駆使し、自身の部下を地域担当にするなどしたことが後のスカウト制になったといわれる

など、その取り組みは当時の三歩先を行くものだったといえる。

そんな鶴岡監督は「放棄試合の第1号監督」という顔もある。
1950年の富山での大映戦で、自軍の選手のダイビングキャッチを落球との判定に不
服に感じた鶴岡監督は激怒、ついに放棄試合をしてしまったのだ。
放棄試合は、即、0対9の敗戦扱いとなるが、それ以上に重い処分が下される。この時も球団には10万円という大変に重い罰金が下されたが、鶴尾監督には処分ゼロ。

 その理由は「人徳、旧暦に照らしてけん責処分とする」

 放棄試合はこれまで4試合があるが、残りの3ケースではほぼ、監督が解任される。鶴岡一人氏の人柄が忍ばれるエピソードであるが、まさに南海創世期の歴史において鶴岡一人なくしては語ることは出来ないのである。

(文責:定年生活事務局)
参考文献:「暴れん坊列伝」(1988年 文芸春秋社)