定年生活.com トップ» 暮らす » 定年生活 1940年のプロ野球ニュース 巨人軍初代エース番号18番 ビクトル・スタルヒンが須田博と改名後、436イニングを投げ、38勝・防御率0.97の大記録達成!

定年生活 1940年のプロ野球ニュース 巨人軍初代エース番号18番 ビクトル・スタルヒンが須田博と改名後、436イニングを投げ、38勝・防御率0.97の大記録達成!

2018/10/25 

 読売巨人軍の背番号18番をつけていた杉内俊哉が引退。読売巨人軍の公式サイトによると、巨人のエース番号18番をつけた選手は杉内を含めて8人しかいない。
 ヴィクトル・スタルヒン、前川八郎、中尾輝三、近藤貞雄、藤田元司、堀内恒夫、桑田真澄、杉内俊哉である。
http://www.giants.jp/G/museum/g_number/number10.html

 スタルヒンは背番号17番のイメージが強いが、堂々の巨人の初代・18番なのである。そのスタルヒンは1939年に42勝という空前の勝ち星を挙げている。1961年に西鉄の稲尾和久投手が42勝を達成しているが、この時は138試合。スタルヒンは96試合でチーム66勝のうちの42勝を挙げている。
 42勝自体が凄まじすぎるので単純な優劣は付けられないが、チームの勝ち星の64%に当たることだけは事実である(2018年の最多勝利は西武ライオンズで88勝だが、その64%だと、56勝を1人で挙げることになる)。
 
身長191センチの長身から繰り出される渾身のストレートが武器だった。そのスタルヒンの活躍は、1940年になっても衰えを知らず、このシーズンも39勝を挙げ、防御率は0.97という大記録を作った。
スタルヒンの生い立ちは数奇である。スタルヒンは法的には無国籍の外国人選手であった。ロシア革命によって共産化したロシアを飛び出し、遠くファーイースト(極東)の日本にたどり着いたスタルヒンは北海道の旭川でアメリカ産の野球に出逢う。

 昭和9年の暮れに大日本東京野球倶楽部が誕生すると、そのメンバーに選ばれ、アメリカ遠征にも参加した。が、サンフランシスコでスタルヒンはトラブルに巻き込まれる。無国籍のスタルヒンに入国許可が下りないのである。日本から出国する際、警視庁から「国外へ行って良い」という許可書を貰っただけだったので、無免許の移民として扱われそうになったのだ。

 さらにスタルヒンの悲劇は続く。1939年には日本が事実上の植民地としていた満州国とモンゴル人民共和国との間で所謂、「ノモンハン事件」が起きる。形式的には、満州国とモンゴルとの国境紛争であるが、満州国は関東軍によって擁立された清朝最後の皇帝・溥儀を皇帝とする国家であり、モンゴルもまた、スターリンによって衛星国家の一つになっていた。
 したがって、この事件は日ソの大規模な軍事衝突になったのだ。結果、ロシア出身のスタルヒンは軍部から「敵性外人」とみなされ、また警察からはスパイとみなされるようになった。

 この様な状況の中でも巨人監督・藤本定義はスタルヒンを様々な外圧や同僚からの陰湿ないじめからスタルヒンを庇い続け、この年から監督・藤本の勧めもあって「須田博」と改名したのである。
 そのような1940年のシーズンもスタルヒンは38勝12敗、防御率0.97投球回数436イニングという神がかり的な大活躍で巨人の2連覇に貢献した。
なおこの年は翼の野口二郎投手が防御率0.93でスタルヒンを僅かに上回って最優秀防御率に輝いている。

 スタルヒンはその後、1944年まで巨人に在籍、199勝を挙げている。戦後、巨人時代に自らを庇い続けていた藤本定義を父と慕うかのように、藤本が指揮を執る金星、太陽、大映と移籍し、最後は新球団・トンボユニオンズで300勝を達成し、1955年に引退した。

 通団完封「83」はいまだに破られない日本記録である。金田正一が「82」だからその凄さが分かる。
 引退から1年後、大好きな車の運転中に東京の路面電車・玉川電車に激突し、死亡した。享年42歳。文字通り、「野球に生き、野球に死す」人生であった。
戦前の日本のプロ野球を一身に背負ったともいえるスタルヒンの功績は出身地・旭川の「花咲スポーツ公園球場」を「スタルヒン球場」と銘打つことで、後世に伝わった。プロ野球の公式戦が行われる球場名に野球選手の名前がつくのは山田久志(能代・山田久志サブマリンスタジアム)とこの、スタルヒンだけである。

(文責:定年生活事務局)
参考文献:スポーツグラフィックナンバー編 豪球列伝(1986年 文芸春秋)



定年生活ではLINEのお友達を募集しています☆以下のQRコードからお友達登録をしていただきますと、LINEだけでのお役立ち情報をお届けします。
定年生活ではLINEのお友達を募集しています