定年生活.com トップ» 暮らす » 1941年 大谷翔平で有名な二刀流のさきがけ 名古屋軍(現中日)・服部受弘選手が本塁打王に 服部選手は投手兼捕手の二刀流で活躍し、戦後初の日本一にも貢献した!

1941年 大谷翔平で有名な二刀流のさきがけ 名古屋軍(現中日)・服部受弘選手が本塁打王に 服部選手は投手兼捕手の二刀流で活躍し、戦後初の日本一にも貢献した!

2018/11/10 

 北海道日本ハム大谷翔平選手が栗山監督のアイデアにより、投手と野手の両方で選手として出場する「二刀流」が話題になった。また2018年のドラフトでは春・夏甲子園を連覇した大阪桐蔭高校の根尾昂選手の二刀流挑戦が実現するのかも注目されている。

 実は戦前の日本プロ野球でこうした「二刀流」は決して珍しいものではない。巨人に入団した赤バットこと川上哲治ももともとは投手だったし、阪神タイガースの主力・藤村冨美男も投手から野手に転向した。
 名古屋軍の主力だった西沢道夫も投手と野手を兼ねることがあった。今と異なり、選手の絶対数が足りないから、こうしたケースは多々あった。が、概ね言えることは彼らには投手の経験があり投手として入団後に野手としても出場し、野手として頭角を現したケースが多い。

 が、1941年に8本塁打を放ち、本塁打王に輝いた名古屋軍の服部受弘(はっとりつぐひろ)は異なる。服部は1939年に日本大学から当時の名古屋軍(現・中日)に入団。強打の捕手としてならした。そしてこの年、8本塁打を放ち、本塁打王に輝いたが、打率は1割9分4厘。2割にも満たなかった。4本塁打を放った巨人の川上哲治が打率3割1分であったことをみるとかなりの低打率である。
 この時期、名古屋軍は巨人やタイガースとは異なり、本拠地球場を持たず、各地を転々とするまさに死のロードを年間通じて行うチームだった。日本最大規模の両翼132mの
鳴海球場があったが、まだ当時の名古屋軍は、本拠地にはしていなかったのである。そのため興行的にかなり苦労したのである。

 さらに、服部捕手はその後の活躍が獅子奮迅のように凄まじかった。本塁打王を取った翌年の1942年から召集によりチーム離れたが、1946年にチームに復帰すると、竹内愛一監督の勧めにより、投手も兼ねるようになった。日本プロ野球史上、類を見ない捕手から投手に転向した「投手兼捕手」の二刀流の誕生であった。また、それまで投手をやったことがなく、投手を始めた稀有なケースである。
 そんな服部「投手」は、今でいうカットボールを武器に、1949年には24勝、1950年にはエース杉下茂に次ぐ、21勝を挙げ、現役通算112勝を挙げた。

 もちろん、打撃も衰えない。1952年8月2日の巨人戦では代打逆転満塁ホームランを放った後に、リリーフとして登板し、勝利投手になるという離れ業を演じている。
 さらに1954年には6勝を挙げてチームの初の日本一にも貢献した。杉下投手が投げる日は捕手として、投げない日は投手として出場し、また打者としては中軸を任されることもあったのでだから、投手として出ない日は「DH」(指名打者)の大谷選手とは比較にならない重労働であることは想像に難くない。今、このような選手が日本からメジャーに行ったら…と思うのは筆者だけではないだろう。

 投手としての勝利はこれが最後になったが、その後は助監督も兼任することになり、「投手」兼「捕手」兼「助監督」という三刀流でチームを支えた。
 1958年に3度、中日監督を務めた天知俊一監督からエースの杉下茂が34歳の若さで選手兼任監督に就任すると、チームの方針で30歳以上の選手は全員、戦力外ということになり、引退。

 1977年に1年だけ、当時のウォーリー与那嶺監督に懇望されて二軍監督を務めた以外は、ユニフォームを着ることはなかった。
 なお、この獅子奮迅の活躍をした服部選手の背番号10は、その活躍により、中日において2名しかいない「永久欠番」である(もう一人は西沢道夫選手の15番)。

 中日に入団した根尾昂選手がこの服部選手のような選手に成長するのか。名古屋のファンの期待は大きいだろう。

(写真説明:写真は、根尾選手が入団する中日ドラゴンズの本拠地:ナゴヤドーム)

(文責:定年生活事務局)



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