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1942年の プロ野球ニュース 年間527イニングを投げた鉄腕・野口二郎投手の延長28回を一人で投げ切った試合をお届けします

2018/11/26 

 鉄腕といわれると稲尾和久、杉浦忠、米田哲也あたりを思い出す方が多いかもしれない。戦前の鉄腕といえば、野口二郎投手であろう。野口二郎投手は中日監督を務めた野口明、野口昇、野口渉といういずれも戦前のプロ野球で活躍した野口4兄弟の次男として知られる。

 野口二郎投手は、中京商業学校時代に1937年夏と1938年の春の甲子園で優勝し、1939年に東京セネタースに入団。いきなり33勝を挙げた。投球回数は459回。1940年にも33勝を挙げた。
 野口二郎投手の真骨頂は1942年。この年、5月24日の延長28回を一人で投げ切り、1942年のシーズンは、527回数を投げ、40勝を挙げた。
 527イニングというこの数字がまず、天文学的数字である。ちなみに2017年のシーズンで最も投げた投手が読売ジャイアンツのマイコラス投手で188イニング。次が同じジャイアンツの菅野投手で187回と3分1イニング。200イニングを超えた投手となると、2015年の中日・大野雄大投手の207回と3分の1イニングを投げたのが直近の記録になる。野口二郎投手の527イニングはおおよそこの2.5倍であるからその凄さが分かる。

 この野口二郎投手が1942年5月24日に、後楽園球場で行われた大洋対名古屋戦である。前日の朝日戦であわやノーヒットノーランという快投をみせた野口投手は連投で登板、相手の名古屋軍の投手は後に打者転向し、ホームランバッターとしても活躍した西沢道夫である。

 この日の後楽園球場は、3試合が行われることになり、この大洋対名古屋戦は第3試合。午後2時30分から開始されることになっていた。


(写真説明:試合が行われた後楽園球場は現在、東京ドームとして今もなお、野球のメッカである)

 この試合の球審は、後にセ・リーグ審判部長も務めた島秀之助氏である。観衆は3000人程度。試合はテンポよく進み、8回終了までで4対2で大洋がリード。9回表・ツーアウトランナー1塁でバッターは名古屋軍の古川清蔵。島氏は「あと1人で終わりだな…」とつい考えてしまったという。
 しかし「野球はツーアウトから」という格言がここでも生き、古川選手が値千金の同点ホームラン。4対4になり、延長戦になった。
 延長26回も終わり、延長27回に突入すると後楽園球場の場内アナウンスが「大リーグの記録が延長26回なので、世界記録になりました。」と告げる。
 27回には大洋の佐藤捕手がツーベースヒットで出塁。しかし次の打者のヒットで生還しようと3塁を回ったところで、転倒。敢え無くアウトになったという。
 結局、28回が終わっても4対4.ここで連盟が「本日は春のシーズンの最終日でこのあとは表彰式があるので、ここで打ち止めにしたい」と引き分けを提案。
 球審の島氏は「まだ明るい」と試合続行を主張したが通らずにこの試合は4対4の引き分けになった。

 この試合は、野口が344球、西沢が311球を投げ、共に28回を完投した。これだけでも驚くのであるが、さらに驚くのは、28回の試合で試合時間が3時間47分であるという。
 近年では投手交代が多く、9回が終わったところで4時間超ということも珍しくないなかで驚異的な試合時間である。
 島氏はその理由について「攻守交替は全速力で。無駄なサインのやり取りもなく、ピンチになると内野手がマウンドで井戸端会議をすることもなかった。延長28回の史上最長試合もアッと終わった感じですね。試合内容は好守・好打の多い試合で昭和34年の天覧試合に匹敵する忘れえぬ内容豊かな試合であった」とのこと。

 野口二郎投手は、237勝を挙げてその後は、阪急や近鉄の監督を務めた西本幸雄監督のもとで投手コーチや二軍監督を務め、選手の育成に尽力した。西本監督は、野球の経歴は彼の方がよっぽど輝かしいが、偉ぶることもなく献身的に支えてくれた」とふりかえった。
 阪急や近鉄が強豪チームに変貌したことも付言する。

(文責:定年生活事務局)
参考文献:『豪球列伝』(1986年 株式会社文芸春秋)



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