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1943年のプロ野球ニュース 名古屋軍のエース・石丸進一が戦前最後のノーヒットノーランを達成後、特攻に散る。

2018/12/10 

 戦火が激しくなり、4連覇を達成した巨人からもエースの中尾輝三、川上哲治らが応召され、また監督の藤本定義も勇退した。
 藤本の後任には、初代の三冠王・中島治康が就任。3本塁打、32打点と選手兼任監督として4番の重責も務めたが、打率は1割9分9厘とデビュー後の最低打率であった。
 そんな巨人は新しいエース・藤本英雄が34勝を稼ぐ大活躍。253奪三振、19完封、勝率7割5分6厘そして防御率0.73という未だに破られない記録で投手5冠を達成。
 チームも54勝27敗の好成績で戦前の黄金期のフィナーレを飾る5連覇を達成した。

 この年、2位に躍進したのは名古屋軍。特にエースに成長した石丸進一が20勝を挙げるなど、進境著しかった。
 石丸は1941年に当時の名古屋軍に入団。入団当時は内野手として活躍。打率は1割9分7厘、8打点と物資不足で飛ばないボールを前にまずまずの活躍を見せた。
 石丸は内野手として出場中もいつかが投手として出場したいと考え、手首を鍛錬。柔道2段の足腰も成果もあって、1942年のシーズンからは投手として活躍。この年は17勝19敗とシーズン39勝の名古屋軍では孤軍奮闘の活躍であった。

 1943年のシーズンも20勝12敗を挙げて名古屋軍の2位躍進に貢献。10月12日の後楽園球場での大和戦では、戦前最後のノーヒットノーランを達成した。

 そして1944年。石丸に学徒出陣の命が下された。石丸は神風特別攻撃隊員に志願し、配属先は鹿児島県の鹿屋基地になった。
 1945年5月11日、石丸は零戦に搭乗。沖縄本土に進軍する米軍の機動部隊を目指して出撃。帰らぬ人になった。プロ野球選手で神風特攻隊員として散ったのはこの石丸ただ1人である。

 石丸は出撃前に最後のキャッチボールを済ませると、ボールに白い布を巻き付け、見送りの人に投げたという。そこには「わが野球人生 悔いなし」と書かれていたとされる。



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