1944年のプロ野球ニュース 戦前最後の職業野球は阪神は、7色の変化球を操る若林忠志の活躍で6年ぶりの優勝
2018/12/25学徒出陣が行われ、戦局が悪化したこの年。職業野球は6チームによる公式戦が土曜日・日曜日に行われることになった。平日は選手も軍需工場などで勤労奉仕をさせられることになった。
5連覇を達成した巨人は、選手兼任監督の中島治康や白石敏男、青田昇ら16人が抜けた。
一方で、阪神は、選手兼任監督の若林忠志が22勝を挙げる活躍で、巨人の6連覇を阻止し、27勝6敗2分で優勝した。若林忠志はハワイの日系2世であり、日本で野球をするようになったのは、不思議な縁であった。
「7色の変化球」で有名であるが、若かりし頃は、豪球投手として有名であった。ところが、若林は温暖なハワイから日本の湿気の多いところで投げまくったので、入団4年目の1939年に肘を痛めてしまった。
養生をして痛みをとれたが、今度は豪速球は戻らなくなった。
そこで、若林は水平に曲がるカーブ、アウトドロップ、垂直に落ちるドロップ、シュート、ナックル、それにストレートをキャッチャーミットに構えた、狙ったところに投げるコントロールを身に着けた。審判をしていた島氏は「沢村栄治の球は速いが球自体も軽く、良く飛んだ。ところが若林は打った瞬間、ズシンと重く、あまりボールが飛ばなかった」という。
この年の22勝は、2位の巨人の勝ち星・19勝も多く、最多勝、勝率1位、防御率1位とMVPを獲得した。
若林はもともと背番号は「4番」をつける予定であった。ところが、4番とは縁起が悪いということで空き番号が「18」番しかなく、18番をつけるようになった。この18番・若林の活躍により「エース番号の18番」として定着するようになった。戦局の悪化により、職業野球の存続は困難になった。連盟は35試合で打ち切りを決定。阪神は、8月30日に朝日と最後の試合を行った。
このまま職業野球は、太平洋戦争の終結まで再開することはなかった。
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