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1949年のプロ野球ニュース 別所引き抜きの遺恨残る初対決で打撃の神様川上哲治が放った球史に残る本塁打!

2019/2/25 

1949年の後楽園球場の巨人対南海は異様な雰囲気であった。前年にはエース別所の引き抜きで遺恨の残る相手である。もともとは別所の球団に対する待遇改善に端を発した事件であったが、ナインは監督兼任4番の鶴岡一人(当日は結婚し妻の姓の山本を名乗った)がどんな苦労をしていたかを知っている。鶴岡は堺市中百舌鳥の6畳一間で暮らし、長男の泰氏が夜泣きをすると夫人は庭を行きつ戻りつしていた。鶴岡監督は、ナインのために自ら近くの畑を耕し、芋を育て、ひもじい思いをする選手に配給した。そんな監督の生活を知っているナインがいきり立つのは当然であった。殺気漲る様相である。

 試合前、両軍の選手は声を掛け合うことも目を合わせることもしなかった。誰もがこの3連戦がいきなり天王山になると思っていたのだ。
戦後初めての悲願の優勝をしたい巨人は、昭和22年に三原監督が復帰。開幕第2戦から7連勝で6年ぶりの優勝に向けて快進撃を続けた。

この日の巨人の先発は川崎徳次。南海は武末。昭和23年の都市対抗野球で西日本鉄道を優勝に導いたアンダースロー。引き抜かれた別所の穴を埋めることを期待されていた。
試合は3回表に動く。8番キャッチャーの筒井が出塁し、3塁に。1番にかえり安井。ライトフライを打ち上げるが、グラウンドのくぼみに足を取られたライト・中島治康の頭上を打球が抜ける。筒井がホームイン。
安井も1塁をけって、二塁に行くが、三原監督が飛び出す。
「安井は1塁を踏んでいない。」

 三原監督の抗議の結果、安井はアウトになった。当然、南海側から猛抗議が出るが判定は覆らない。

 4回裏、巨人が反撃に。千葉茂のスクイズなどで2点をがあげ、逆転するが、今度は5回表に南海が6本のヒットで4点を加えて、5対2に。ゲームはそのまま9回裏に入った。

 巨人は川崎徳次に代打・小松原。これがフォアボール。トップにかえり、1番・千葉。猛牛とあだ名された背番号3は、打つ気をそぶりを見せない。そう思ってボールを投げ込むとファウルの連続。千葉の作戦である。こうして投手を疲弊させるのである。
 根負けした武末がまたもやフォアボールを出す。鶴岡監督がベンチを飛び出し、投手を中原に後退。ドロップカーブが持ち味の昭和21年の都市対抗優勝投手である。

 その中原も2番・白石敏男を歩かす。これで無死満塁である。次は3番・青田・三原監督が巨人に復帰すると阪急から巨人に復帰した強打者。中原はこれを何とか抑えるが、4番は打撃の神様・川上。
 カウント0-2から、中原のストレートを一撃。打球はライトスタンド中段に飛び込む逆転満塁サヨナラ本塁打。小松原が、千葉が、白石がホームイン。そして、川上がホームインするとナインは川上を胴上げした。南海に与えたダメージはそのぐらい大きかった。

 3連戦の3戦目にエキサイト巨人・三原監督が南海・筒井選手をポカリとする。このポカリ事件で三原監督は無期限出場停止処分を受けるが7月21日に解除。三原監督が存分に指揮を執った巨人は別所も加わり、85勝を挙げ、2位阪急に16ゲームの大差をつけて戦後初優勝を飾る。
 一方の南海は67勝67敗で5割を守るのがやっとだった。そして翌年からの2リーグ制へと移行する。

 三原監督、川崎徳次、そして南海の武末が揃って玄界灘を渡って、西鉄ライオンズ黄金期を作るのはまだ先の話である。

(文責:定年生活事務局)
参考文献:『熱闘!プロ野球三十番勝負』(1990 株式会社文芸春秋)

巨人対南海 1回戦(1949年4月12日 後楽園球場)
南  海 001 040 000 5
巨  人 000 200 004×6
勝利投手 川崎
敗戦投手 中原
本塁打:川上(9回・満塁)



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