1956年のプロ野球ニュース 水原茂・三原脩の因縁の対決 巨人対西鉄の初対決は三原が「巌流島の決戦」を制する
2019/6/11プロ野球も2005年から交流戦がスタートし、セントラルリーグとパシフィックリーグのチームが公式戦として対戦することになった。
このうちでも特に日本シリーズで対戦するカードが多い対決は注目を集める。特にGL決戦と称されるジャイアンツとライオンズの10回以上にわたる熱戦はこの1956年の初対決から始まった。
特にこのGL初対決は巨人の監督・水原茂と西鉄・三原脩監督の因縁も相まってマスコミは「巌流島の決戦」と宣伝。この対決は、大いに話題になった。が、なぜここまで、水原監督の三原監督の対決が話題を呼んだのか?
それは2人が、早稲田・慶応の中心選手であった6大学野球時代にまで遡る・・・。・水原へのライバル心が三原のエネルギー源だった
昭和6年6月14日、新しくなった神宮球場に65,000人の観衆が詰めかける中、伝統の早慶戦の第2戦目が行われていた。ここで早稲田大学の三原脩は劇的なホームスチールを成し遂げている。
その時の慶應の投手は三原の生涯のライバルとなる水原茂であった。
2対2となった7回表から慶應は水原茂が三塁から投手に回った。既に全国スターだった水原に対し、ワンアウトから三原がフォアボールで出塁。その後、満塁と詰め寄った。舞台は整った。三原は後日、回想する。
「水原君の第1球、モーションにあわせてベースから離れる。ざっとみて7.8メートル離れただろうか。そのときの感触はしっくりきていた。ひょっとすると・・・。帰塁して深呼吸する。すべての雑念が消えかけていた。」
水原茂は第1球と同じようなモーションだとわかると、三原は本塁へ疾風のごとく駆け抜けたホームベースの3メートルも手前からヘッドスライディングを試みた。間一髪のセーフ。結局、6対3で早稲田が慶應に勝利した。
ただ、三原は水原のたぐいまれなる野球センスを認め、他の投手であれば、悠々セーフであったと振り返っている。水原こそ、わが野球人生最大のライバル、いや自分以上に豊かな才能と洗練されたセンスの持ち主である水原を超えるにはどうしたら良いか・・・。その答えこそが定石を超えたホームスチールであったのだろう。・シベリア抑留から帰国した水原茂をファンの歓喜が出迎えた。
戦争が終わり、1946年にはプロ野球が再開。最大の娯楽へと発展したが巨人は低迷が続いた。1948年オフに南海のエース・別所毅彦を獲得し、1949年に三原脩監督の下で戦後初優勝を目指した・・・。
その矢先、三原の宿命のライバル・水原茂は長いシベリア抑留生活から1949に帰国。7月24日には、「水原はただいま、帰国いたしました。」と満員の後楽園球場のファンにあいさつ。主将まで務めたカリスマスターの帰国はジャイアンツ内の人間関係を一変させる。
1949年、三原は戦後初の優勝を巨人にもたらした。が、水原の復帰とは別の動きで、1950年、三原は優勝したにもかかわらず総監督という背広の閑職に祭り上げられ、水原が選手兼任監督に就任する。
結果として水原が優勝監督の三原を追い出す形となり、三原は強い恨みをバネに、遠く、九州の西鉄ライオンズの監督に就任した。「いつの日か、東京の巨人を叩き潰してやる」と。・第2次黄金時代を謳歌した巨人と新進気鋭の西鉄が激突した
巨人の監督に就任した水原は1951年から3年連続の日本一、1955年にも日本一になり、第2次黄金時代を謳歌していた。
一方で西鉄ライオンズは三原脩のもと、東急から大下弘が加入。新人選手として豊田泰光、中西太が加入し、流線型と呼ばれる強力打線で1954年には初優勝。1956年には稲尾和久が加入し、投手の大黒柱が出来た。この年、96勝を挙げて覇権奪回。ついにここに因縁の水原巨人との初対決を迎えた。・水原茂の不敗神話に終止符を打つ「偶数回線必勝論」
とはいえ、戦前は巨人優位の声が圧倒的であった。第2次黄金時代の真っただ中で水原茂は日本シリーズには負けたことがないことが追い風になった。そんな水原巨人にガチンコでぶつかっても無駄に血が流れるのみ。そこで三原監督は偶数回である第2戦、第4戦、第6戦を重視した。先手必勝だと、第2戦で連勝できない場合に、1勝目の意味がなくなる。しかし、裏を返せば、初戦を「捨てゲームにする」という従来の定石を大きく外す戦略でもあった。
第1戦は、西鉄・三原監督は川崎徳次を先発に立てる。1回2失点でKO。続く、西村も3回を投げて2失点。しかし島原幸雄と稲尾和久は無失点に抑えた。4対0で敗れた緒戦に先発投手候補を全員、投げさせマスコミには
「あいさつ代わり」
とけむにまく三原監督。しかし、「島原と稲尾が使える」
と確信する。
第2戦は西鉄は稲尾が先発。巨人は別所が先発する。別所を打ち込んだ西鉄は5回途中から島原が稲尾を救援。この年、25勝を挙げ、才能開花した島原が1点差をしのぐと、6回、8回にも追加点を挙げた西鉄が6対3と勝利。見事に第2戦を勝利し、舞台は西鉄ライオンズの本拠地・平和台球場へ。
第3戦は、巨人が幸先よく2回に4点を先制。このまま奇数は巨人かと思われたが、8回裏に巨人が救援に送った別所に襲い掛かり、豊田のホームランや稲尾のタイムリーで逆転。そのまま稲尾の好救援で5対4の逆転勝利。
第4戦は今度は第2戦に好救援だった島原が巨人打線を完ぺきに抑える。西鉄は中西太の大ホームランなどで4対0。ついに3勝1敗で王手をかけた。
第5戦は、巨人が意地を見せ、8回、9回に一挙7点を取り、12対7と一矢を報い、舞台は再び後楽園球場へ。
運命の第6戦。この頃のシリーズは出場する選手を予告するスタイル。三原監督は「稲尾」を予告した。一方の水原監督は「別所」と予告。これに報道陣は驚いた。このシリーズ、巨人の別所はことごとく、西鉄打線に打ち込まれていたからだ。
第6戦も初回から西鉄の猛打が炸裂。いきなり、豊田泰光、大下弘、関口清治の打棒が爆発し、別所はワンアウトしかとれずに4失点KO。わずか10球で降板となった。このまま西鉄の先発・稲尾は悠々と完投。5対1で巨人を破り、西鉄ライオンズが初の日本一に輝いた。シリーズの表彰もMVP豊田・敢闘賞・稲尾和久・技能賞・関口清治・首位打者・豊田泰光・最優秀投手・稲尾和久とすべてを西鉄ライオンズ勢が独占。水原茂監督のシリーズ不敗神話の終了は玄界灘を渡った九州に西鉄王国が誕生するプロローグともなった。
【1956年日本シリーズ結果】
第1戦:●西鉄0-4巨人○
第2戦:○西鉄6-3巨人●
第3戦:○西鉄5-4巨人●
第4戦:○西鉄4-0巨人●
第5戦:●西鉄7-12巨人○
第6戦:○西鉄5-1巨人●(写真説明:現在、ライオンズの本拠地となっているメットライフドーム。ライオンズが所沢移転後も巨人とは数々の名勝負を演じている)
(文責:定年生活事務局)
参考文献:プロ野球乱闘史「暴れん坊列伝」(1988 文芸春秋)
九州ライオンズ激闘史(2014 ベースボールマガジン社)
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