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1957年のプロ野球ニュース パ・リーグで1年で2回の球団合併。そんな吸収合併人生の果てに名物キャスター佐々木信也が誕生!

2019/6/25 

2004年に発表された大阪近鉄バファローズのオリックスへの球団譲渡は事実上の球団合併となり、パ・リーグ5球団或いはもう一つの合併しいては1リーグ制への意向と相まってプロ野球史上初のストライキに発展した。

 プロ野球はもともとセ・リーグ7球団、パ・リーグ8球団でスタートしたのだが、12球団制になったのは1957年。この年は、1年間で2回、球団合併が行われた。そんな渦中にあった高橋ユニオンズを中心に、この合併騒動を振り返りたい。

球団数拡張に動いたパシフィックリーグ

 1950年に2リーグに分裂したプロ野球はセントラルリーグ8球団、パシフィックリーグ7球団でスタート。しかし同じ福岡に2球団は多すぎるということで、まずはセ・リーグの西日本パイレーツとパ・リーグの西鉄クリッパーズが合併。「西鉄ライオンズ」がパ・リーグ球団として誕生。
 これでセ・パ両リーグ共に7球団制となったが、奇数では日程が組みにくいとして、1952年オフに大洋と松竹が合併。セ・リーグは6球団制となった。
 一方のパ・リーグは大映の永田雅一オーナーがセ・リーグより優位に立ちたいとして「8球団制」を主張。白羽の矢が立ったのが「大日本麦酒」で名をはせ、「ユニオンビール」が有名だった高橋龍太郎氏。
 1954年に、高橋氏の私財により、「高橋ユニオンズ」というチームが結成された。球団拡張ではあったが他球団は当然に主力選手は供出せず、新球団はメンバー集めに苦労した。
 ところが、このチーム、新外国人で捕手のサルバトーレ・レッカが打率2割ながら本塁打23本の大活躍で大映や東映を上回り、53勝の6位でフィニッシュ。球団拡張は、成功したかに見えた。

ユニオンズの経営は下降の一途

 一方で集客には苦労した。ユニオンズの本拠地は川崎球場であるが、1年間のトータルで後楽園球場の巨人1試合分にも満たないという。まだジャンボスタンドのない後楽園だから3万人と見積もると、ユニオンズの1試合平均400人程度の観衆ということになる。
 昭和の末に同じ川崎球場のロッテの観衆の不入りとその光景がプロ野球珍プレー・好プレーのネタになっていたが、それを上回る不入りである。当然に、経営は苦しくなり、翌年にはトンボ鉛筆がスポンサーに。しかしトンボユニオンズは開幕12連敗のスタート。僅か42勝の最下位でスタルヒン投手の300勝達成位しか話題にならなかった。

慶応野球部のスター・佐々木信也が入団

 そんなオンボロ球団に慶應野球部のスター・佐々木信也が入団。167㎝と小柄だが甘いマスクに俊足好打の選手。父も慶應野球部の出身で、湘南高校時代には、中西太のいる高松一高に勝利し、甲子園優勝も経験。経歴、学歴、そしてルックスと申し訳ないがまさに「掃き溜めに鶴」の存在。
 そんな佐々木信也は、人気、実力ともに最下位のチームで不動の1番打者として活躍。154試合すべてに打席に立ち、2割8分9厘で打撃成績ベストテンの第6位にランクインした。しかしチームは52勝98敗で優勝した西鉄から45.5ゲーム差の最下位に終わった。

8球団維持が困難になったパ・リーグ

 一方で、ユニオンズの経営は完全に行き詰った。佐々木信也曰く、1試合観衆は30人程度。これが正確ならば、年間2300人程度の観客動員となる。
 1957年2月19日、緊急パ・リーグオーナー会議が東京駅八重洲北口の「ホテル国際観光」にて午後1時半より行われ、現行の8球団制を協議するも結論が出ず午後4時に散会。
6日後の2月25日、パ・リーグのオーナー会議が午後1時から東京駅八重洲口の「ホテル国際観光」にて開かれ、高橋ユニオンズと大映スターズが球団合併することを決定。新チーム「大映ユニオンズ」とし、7球団制を取ることがパ・リーグ佐伯勇総裁から発表される。
2月のキャンプ中の出来事で、佐々木曰く、約半分のクビになる選手が大映に移籍できる選手をベンチから見つめていた光景が忘れなれないという。

さらなる合併の余波

 7球団では日程が組みにくいのは既にセントラルリーグが実証している。1957年のシーズンが終わった11月28日、今度は球団経営に意欲を失いつつあった毎日新聞社と映画産業が斜陽化し、経営が苦しくなっていた大映の利害が一致し、両球団が合併し、「大毎オリオンズ」となることが発表される。
 佐々木信也は1年間で2回も合併を味わうという吸収合併人生。今度の監督は慶應OBで佐々木信也の先輩でもある別当薫が就任。

 この別当薫監督はチームの再生には手腕を発揮するが一方で好き嫌いの激しい人物としても知られ、別当監督時代には冷遇された。
 1959年オフに西本幸雄監督が就任すると、佐々木信也はまだ26歳の若さで解雇通告。すると、テレビ朝日から「言語明瞭で画面映りが良い」との理由でプロ野球解説者に。ソフトな語り口が人気となり、1976年からスタートしたフジテレビの「プロ野球ニュース」でキャスターを務めていた姿をご記憶されている方も少なくないだろう。
 2回の合併が行われた異例のシーズンは1人の有名なプロ野球解説者を生み出したシーズンでもあった。

(文責:定年生活事務局)
参考文献:プロ野球ヒーロー伝説(1992 文芸春秋)



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