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1958年のプロ野球ニュース 長嶋茂雄が対金田4打席4三振!プロデビュー そのすべてが空振りという攻撃性に金田は震撼した!

2019/7/13 

プロなんてこんなものか・・・

巨人軍不滅の9連覇。その中心にいた中心打者・長嶋茂雄。ミスタージャイアンツ、ミスターベースボール・・・。「ミスター」に形容されるこれほど多くの愛称をもつスター選手長嶋茂雄は決してスター街道を歩いてきたわけではなかった。

長嶋茂雄の高校時代は佐倉一高。甲子園に進出することはなく、そこから立教大学に進学した。当時の立教大学・砂押邦伸監督がボールの見えない夕闇のグランドで猛ノックをしたことは有名であるが、砂押が本当に教えたかったのは「勝利のための連帯」である。練習最後のシートノックは三塁手からスタートする。これをエラーすると、その日の一番最初の練習であるランニング、キャッチボールからやり直しになる。長嶋は絶対にエラーが出来なかった。
 こうして徹底的に鍛えられた長嶋は砂押退任後も本屋敷錦吾、杉浦忠と共に「立教三羽がらす」として立教黄金時代を形成する。長嶋は相思相愛といわれていた南海ホークスを蹴って読売ジャイアンツに入団する。

プロのキャンプは立教大学ほどは厳しくない。おまけにオープン戦は18試合で最多の7本塁打を放っている。長嶋は「プロとはこんなものか」と自信の塊のまま、公式戦に臨んだ。

ポッと出の新人に打たれてたまるか

 1958年の開幕戦・4月5日の巨人対国鉄戦。NHKの志村正順アナウンサーの名調子風に言うと「まなじりを決して」国鉄のエース・金田正一が後楽園球場のマウンドに上がった。
 金田正一・24歳。この年まで弱小・国鉄の大黒柱として7年連続20勝の大記録を達成したまさに国鉄の大黒柱。ここまで既に182勝を挙げている。マウンドに立った金田正一は、
「ポッと出の新人になめられてたまるか。わしはプロやで。打たれたらプロの暖簾が泣くわ」

1回裏・巨人の攻撃。金田のピッチングはすさまじかった。1番与那嶺要をまず三振。2番広岡達朗は3球三振。そして3番サード長嶋に打順が回った。以下、長嶋本人の述懐に基づいて4打席を振り返る。

第1打席:初球、内角高めの速球にかすりもせず。長身からブレーキの利いた大きな鋭いカーブの連投。その後、初球を上回る胸元への速球にあえなく空振り三振。

第2打席:4回裏走者なしの場面。4級連続のカーブでカウントは1-3。3球目に「ちっ」とかすった。5球目は高めの速球。6球目は外角に泳がされての空振り三振。手も足も出ない。
第3打席:7回ノーアウト、ランナー1塁、2塁。初球の真ん中、カーブをバントしようにも当たらない。3球目の真ん中の速球を空振り三振。

第4打席:9回裏、ツーアウトランナーなし。カーブ、シュート、カーブ、シュートでカウント1-3.外角カーブで2-3.6球目の大きなカーブでまたもや空振り三振。見事な4打席連続三振。

 まさに「天井掃除に床掃除!ハイおしまい」といったところか。試合は国鉄が延長11回に4点を挙げて4対1で開幕戦に勝利した。

「長嶋ひとりを牛耳ったところでワシの給料はあがらんよ。」
意地を見せつけた国鉄・金田は平然と報道陣に語った。

長嶋は金田をカモにする

 この日、長嶋が受けた12個のストライクのうち、見逃しは僅かに2。9球は空振り。メロメロにされつつも積極的に打って出ている。この姿に金田は長嶋の恐ろしいほどの才覚を感じている。事実、長嶋はこの後、金田を打ち込んでいる。
 翌1959年には、3割3分3厘。1960年には、1個の三振もなく、1964年には4割2分9厘と完膚なきまでに長嶋は金田を打ち込んだ。
 4打席4三振。あまりにも強烈すぎるしかし、あまりにも積極的な長嶋茂雄のプロデビュー。双方とも力を出し切った真剣勝負は今後も語り続けられるだろう。

1958年4月5日 国鉄対巨人1回戦(後楽園球場:観衆45,000人)
国 鉄 000 000 000 04 4
巨 人 000 000 000 01 1
勝利投手:金田
敗戦投手:藤田

(文責:定年生活事務局)
参考文献:熱闘!プロ野球30番勝負(1990 文芸春秋)
     長嶋茂雄『野球は人生そのものだ』(2009 日本経済新聞社)

 



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