1959年のプロ野球ニュース グランドには銭が落ちておるが口癖の鶴岡親分に悲願の日本一をもたらした杉浦忠の4連投4連勝!
2019/7/261948年にエース別所毅彦を引き抜かれた南海。その後、武末から江藤正、服部武夫、大神武俊、宅和本司、中村大成、木村保とその年その年にキラ星のごとく出現したエースがいわば、1年限定で活躍。1951年からの3連覇や1955年の優勝を果たすなど、南海は常勝軍団であり続けた。
しかし肝心の日本シリーズではその別所がいる巨人に4回続けて返り討ちにあってしまう。その間、パ・リーグでは中西太、豊田泰光、大下弘らを擁する西鉄ライオンズが台頭。1954年に初優勝を飾ると、1956年から3年連続で優勝、日本シリーズでも巨人を3年連続で破り、黄金時代を謳歌していた。鶴岡監督も負けじとこれまでの「100万ドルの内野陣」から野村克也、穴吹義雄、寺田陽介、杉山光平等を中心とした重量打線・「400フィート打線」を形成。
しかし、真に強いチームには絶対的なエースが必要不可欠。鶴岡監督が考えるエースの役割とは、ズバリ…「肉体的に若く、新鮮で一方で精神的には風格を漂わせるほどに人間として強い投手」
折しも立教大学では長嶋茂雄、本屋敷錦吾そして杉浦忠の三羽ガラスが立教黄金時代を形成していた。特に1957年頃から長嶋茂雄、杉浦忠が投打の中心として注目されるようになるが、その前年、鶴岡監督は、少し変わった選手を入団させている。
・南海と杉浦忠の仲人は長嶋茂雄だった・・・
大沢啓二。大沢親分の愛称で、日曜日の情報番組で「喝! アッパレ!」でおなじみだった人物だ。肩と足は強いが身体はそれほど大きくない。かといって400フィート打線に合うような長打力もない。しかし人望はあり、立教大学では主将を務めていた。
そんな大沢啓二は行ってみれば「小型親分」。親分鶴岡はミニ親分を使って長嶋茂雄と杉浦忠の獲得に乗り出した。
初めに応諾したのは長嶋茂雄だった。その長嶋が杉浦に「会わせたい人がいる」と言ったのは1956年。中野ホテルで鶴岡監督と杉浦忠は初めての面会を果たしている。が、杉浦がプロ入りを決断した、1957年の秋のシーズン途中。長嶋は杉浦に「巨人に行く」と伝え、南海側を疑心暗鬼に。またもや巨人の謀略が水面下で進められていたのである。
一方、杉浦は鶴岡監督に
「僕は裏切りせんよ。」
と語り、鶴岡に人間的な確かさを感じとらせた。・38勝4敗という驚異的な成績で南海に覇権をもたらせた・・・
1958年に入団した杉浦は期待たがわず27勝で新人王に。しかしチームは鉄腕・稲尾和久の活躍で11ゲーム差を西鉄が終盤、逆転し、西鉄ライオンズに3連覇を許した。
翌、1959年は4連覇を目指す西鉄ライオンズにはチーム全体に張りがなく、6月6日の大阪球場での西鉄との4連戦を3勝1敗と勝ち越すとライバル・ライオンズとの差はぐんぐん広がり、88勝42敗で4年ぶりのリーグ優勝、杉浦は38勝4敗という驚異的な成績で投手のタイトルを総なめにした。・日本シリーズは因縁の水原巨人と・・・
またもや水原茂監督率いる巨人との対決になった日本シリーズ。大阪球場では始まった日本シリーズ第1戦は、巨人先発の左腕・義原を南海が初回に打ち込む。杉浦は8回3失点で幸先よく南海先勝。
第2戦は、巨人がエース・藤田を立てるも6回までに南海が6点を取り、KO。杉浦は5回からリリーフで好救援。しかし手のマメがつぶれ、血染めの勝利となった。
舞台が後楽園に移った第3戦。2対1と南海がリードした9回裏の攻防がこのシリーズ最大のハイライトとなった。
まず、巨人の坂崎一彦のホームランで同点。続く国松彰がセンター前ヒット。広岡達朗がサードゴロで国松が二塁でアウト。しかし加倉井実がライトに二塁打を放ち、ワンアウト二塁、三塁に。ここで杉浦のマメが再び破れる。杉浦は内心「替えてほしい」とベンチの鶴岡監督の方に目を向ける。しかし、鶴岡監督はベンチにいた長谷川に杉浦のもとに厳島神社のお守りを届けさせる。続投の指示だ。
打者は巨人の捕手・森昌彦。カウント2-2から外角シュートを左中間へ。杉浦は「サヨナラ負けだ」と観念する。しかし森の流し打ちを読んでいたセンター大沢が左中間寄りに守っておりスーパーキャッチ。広岡はタッチアップを図るもダイレクトの送球で広岡はホームでタッチアウト。この大ピンチを逃れた。
10回表、野村克也と寺田陽介の連続ヒットで勝ち越す。杉浦は最後の打者・長嶋茂雄を打ち取り、142球の完投勝利となった。・第4戦は雨で1日の順延・・・
二人の親分に助けられた杉浦。第4戦は、雨で1日、延期となり、杉浦には思わぬ休養となった。
10月29日の第4戦は再び、南海・杉浦、巨人・藤田との投げ合いになった。第4戦は、完全に南海ペースに3回に1点、7回には杉浦のヒットなどもあり、2点を追加し、3対0に。
杉浦は巨人の最後の打者・坂崎一彦を打ち取り、見事に4連投4連勝。「南海はナンカイやっても巨人に勝てない」と陰口をたたかれた鶴岡監督に5度目の挑戦で悲願の日本一を南海にもたらした「グランドにはゼニが落ちている」といった鶴岡親分が嬉し涙にくれた。杉浦の「1人になって泣きたい」の名セリフが誕生するのもこの時である。
その翌々日。10月31日には最初で最後の南海・御堂筋パレードが行われた。
(写真はパレードが行われた御堂筋。ホークスの御堂筋パレードはこの1回しか行われなかった)しかし杉浦の野球人生はここがピークだった。酷使がたたり1961年には腕を故障。1964年の20勝を最後に下降線をたどり、1966年にコーチ兼任になるとその下降線はいよいよ急となる。
あれほどの大投手でありながら187勝で引退。名球会に入れなかった杉浦もある意味、チェーンエースの一人と思うとそれはあまりにも美しすぎるドラマだ。1959年日本シリーズ
第1戦 1959年10月24日 大阪球場(30,038人)
巨 人 000 001 204 7
南 海 501 010 30× 10
勝利投手:杉浦(1勝)
敗戦投手:義原(1敗)第2戦 1959年10月25日 大阪球場(30,288人)
巨 人 200 000 100 3
南 海 000 402 00× 6
勝利投手:杉浦(2勝)
敗戦投手:藤田(1敗)第3戦 1959年10月27日 後楽園球場(32,058人)
南 海 020 000 000 1 3
巨 人 100 000 001 0 2
勝利投手:杉浦(3勝)
敗戦投手:義原(2敗)第4戦 1959年10月29日 後楽園球場(32,266人)
南 海 001 000 200 3
巨 人 000 000 000 0
勝利投手:杉浦(4勝)
敗戦投手:藤田(2敗)(文責:定年生活事務局)
参考文献:熱闘!プロ野球30番勝負(1990 文芸春秋)
杉浦忠『僕の愛した野球」(1995 海鳥社)
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