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1960年のプロ野球ニュース 6年連続最下位の大洋ホエールズを就任1年目で日本一に導いた三原脩監督の1年

2019/8/13 

西鉄ライオンズが読売ジャイアンツを3年連続で倒し、3連覇を達成した1958年オフ。衝撃的なニュースが飛びこんだ。
「西鉄・三原監督 大洋の新監督へ」

1958年10月21日,後楽園球場で稲尾和久投手が4連投で4連勝を飾り、3年連続で巨人を倒し、日本一となった日。その祝勝会の会場で三原監督は、西鉄ライオンズの西亦次郎球団社長に
「これで私の西鉄での役割は終わりました。今シーズンで退団させて頂きたい」
と退団の意思を伝えている。

しかし、その翌日、上記の報道が報知新聞(今のスポーツ報知)からなされた。当時の大洋ホエールズは5年連続最下位。内訳は以下の様である。
1954年 32勝96敗 55ゲーム差
1955年 31勝99敗 61.5ゲーム差
1956年 43勝87敗 41ゲーム差
1957年 52勝74敗 21.5ゲーム差
1958年 51勝73敗 23ゲーム差

 こういっては失礼だが、ダントツの最下位である。1958年に三原脩の早稲田の先輩にあたる大洋ホエールズの森茂雄球団代表から三原脩に
「九州から帰ってこないか」
と監督就任要請を受ける。この頃、経済白書にて「もはや戦後は終わった」といわれ、経済の構造改革が始まった時代。西鉄ライオンズの親会社である西鉄も事業改革を余儀なくされ、従前のような大型補強は望めなくなっていた。そこに家族が住む関東を本拠地とするチームからの監督就任要請。心が動かないはずがなかった・・・。
 とはいえ、3年連続の監督を万年最下位のチームに追いやったとしては西鉄のメンツは丸つぶれである。西球団社長との話の合いの末、1959年も指揮を執ることになったが、チームに張りがなくなり、西鉄は4位転落。三原監督は「完成されたチームに魅力はない」といい、九州を去った。成績不振を理由とする送別会も慰労会もない、寂しい最後であった。
 一方の大洋は監督が来なかったため、急遽、球団代表の森茂雄が監督を務め、49勝77敗で指定席の最下位。6年連続の最下位のチームを三原脩が率いることになった。

大見えを切った三原監督

「セントラルは巨人だけが毎年のように優勝している。それではつまらない。私は大洋球団をセントラルで風雲を巻き起こすチームに育てたい」
と三原監督は大洋監督就任記者会見で語った。

三原が言う「毎年優勝」する巨人は因縁のライバル・水原茂監督の下で5連覇を達成。1960年は水原巨人対三原大洋というカードが否が応にも注目された。しかし、西鉄時代には投手陣では稲尾や島原、打線では豊田泰光、中西太、大下弘等錚々たるメンバーがそろっていたが、大洋では投手の秋山程度。
「所詮は6年連続の最下位のチーム。まずはお手並み拝見」
といったムードが強かったのも無理はない。
三原自身、戦力が劣ることはは百も承知。あとは自らの知略で大洋の土俵に引きずりこむ・・・。百戦錬磨の致傷の1960年のシーズンは4月2日、中日球場でスタートした。

牧野茂のバットが秋山を直撃

 開幕戦はエース・秋山と決まっていた。その中日球場で当時、練習中であった中でのコーチを務め、後のV9巨人の参謀となる牧野茂のバットがこともあろうか秋山登の頭に直撃。大洋はただでさえ、戦力がない上にエース秋山を開幕から欠くアクシデントに。
 意気消沈した大洋は開幕の中日3連戦を3連敗。後楽園に戻り国鉄スワーロズとの3連戦も3連敗。これで開幕6連敗。杉下兼任監督率いる中日とは早くも6ゲーム差がついた。
「監督が代わったとしても急に強くなるほど、プロ野球は甘くない・・・」
多くはそれみたことか・・・と冷やかであった。

大洋に欠けているもの

 三原脩が大洋監督就任要請を受けた1958年。三原は密かに大洋の捕手・土井淳と神楽坂の料亭で会食をし、大洋のチーム事情に聞いている。
「土井君、今の大洋ホエールズに最も欠けているものは何だと思うかね」
この問いかけにに対し、土井淳は
「1日1日が無事に終わればよいという選手が多すぎる」
という旨の回答をしている。要は勝敗などは二の次、三の次で負け犬根性に染まった選手が多いということを三原に伝えている。
結果、三原は勝負への厳しさを植え付けることをいの一番に手を付けることととした。現に三原監督就任見送りとなった1959年は森茂雄監督の下、土井淳が主将となり、負け犬根性のベテラン選手は大量に解雇されている。

「超二流」のさきがけ・鈴木武
 
 三原監督が就任すると、二遊間の強化が至上命題になった。強いチームは投手、捕手、二遊間、中堅というセンターラインが強い。投手は秋山、捕手には土井淳がいてセカンドには早稲田の後輩、近藤昭仁が入団、センターには天秤打法の近藤昭彦がいる。残るはショートになる。
 三原監督は当初、浜中祥和を使おうとした。しかしオープン戦の打率が4分9厘。20回に1回もヒットが出ない計算になる。これでは使えないとシーズン途中にパ・リーグの選手に目をつける。
「鈴木武」
万年最下位の近鉄の二軍にくすぶる遊撃手である。ただし、守備は天下一品。しかし1959年にから監督に就任した巨人出身の千葉茂監督と折り合いが悪かった。三原監督は千葉茂に譲渡を申し出るとさしたる期待もないせいか、譲渡が承認された。世間も前年39勝というダントツの最下位の近鉄の二軍選手の移籍に対して関心を示さなかった。一方、三原監督はこれで戦力の充実を確信する。
 守備に難のある遊撃手・麻生実男を代打の切り札に回すことが出来、鈴木と併せて一芸に秀でた選手いわゆる「超二流」選手が大洋の空気をと確信したからだ。鈴木武が入団後、7月には大洋は首位に顔を出すようになった・・・。

2番目のエース・島田源太郎の完全試合

 1960年8月11日、大洋の本拠地・川崎球場での対阪神タイガース戦で阪神のエース・村山実と投げ合った20歳の島田源太郎が1対0のスコアで完全居合を達成した。投球数108、外角に逃げるドロップカーブが面白いほどに決まった。20歳での完全試合はもちろん史上最年少。この年、19勝を挙げた若きエースは秋山登に次ぐ2番手のエースとなった。
 さらに、この年の大洋は、1点差勝利が多かった。70勝のうち、1点差が34勝。9月26日からの水原巨人との3連戦も島田源太郎、秋山登で2対1と2連勝。巨人とのマッチレースも決着がついた。
 10月2日、この日、巨人が広島に敗戦し、甲子園球場で阪神タイガースと戦っていた三原監督が宙に舞ったのである。6年連続最下位からの優勝、「三原マジック」がここに完結したのである。

1960年セントラルリーグ順位表
1位 大洋 70勝56敗4引分
2位 巨人 66勝61敗3引分
3位 阪神 64勝62敗4引分
4位 広島 62勝61敗7引分
5位 中日 63勝67敗
6位 国鉄 54勝72敗4引分

日本シリーズは大毎オリオンズに4連勝!すべて1点差

 1960年の日本シリーズは西本幸雄監督率いる大毎オリオンズ。山内一弘、榎本喜八、葛城隆雄、田宮謙次郎を中心とした「ミサイル打線」と形容される強力打線。大毎の圧倒的有利が予想された。ここでも三原監督はエース秋山を温存。いわゆるショート先発を立てて、肝心な場面で惜しみなく秋山登を投入するという今でいう「オープナー先発制度」を導入。
第1戦は1対0、第2戦・3対2、第3戦・6対5、第4戦・1対0とすべて1点差で4連勝。ついに大洋ホエールズは6年連続最下位ら一転、日本一にまでのぼりつめたのである。この要因にはスコアラーの充実があった。スコアラーから出てきた情報を基に相性などから選手を起用。いわゆる偵察メンバーなども積極的に起用し、最少得点差でのみ勝機を見出した結果であったもあった。

 一方、因縁の三原監督に日本一を取られ、2位に終わった読売巨人はただでは終わらなかった。常勝巨人軍を義務付ける正力松太郎オーナーは水原監督の交代を決断。川上哲治ヘッドコーチが監督に昇格。水原茂氏は東映・大川博社長の「金は出すが口は出さない」の殺し文句で東映フライヤーズの監督に転身した。

(文責:定年生活事務局)
参考文献:富永俊治『三原脩の昭和35年」(1999 株式会社宝島社)
     立石泰則『魔術師」(1999 文藝春秋)

 

 



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