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1962年のプロ野球ニュース 光の球場・東京スタジアムが完成 

2019/9/17 

1962年5月31日、東京都荒川区南千住に大きな新球場が誕生した。もともと1879年に設立された「千住製絨所」の跡地に建設された「東京スタジアム」。廃業した「千住製絨所」の跡地を買い取って専用の球場を建設すると言い出したのは、「永田ラッパ」の異名で有名な大映の永田雅一であった。

モデルはキャンドルスティック・パーク

1960年代初頭、大毎オリオンズの本拠地・後楽園球場は、読売ジャイアンツ、国鉄スワローズ、大毎オリオンズと3球団の本拠地であったため、日程の過密化が常態化していた。そこで、オリオンズのオーナー・永田雅一は、私財を投入して自前の本拠地球場の建設を計画。かねてより、下町に自前の新球場を作りたいということで都電31系統・三ノ輪橋電停から徒歩3分のこの地が選ばれた。

 当時の大映は映画産業の斜陽化などで経営難に陥りつつあったが、永田は用地を取得し、建設工事は1961年7月に着工。わずか1年足らずの1962年5月31日に竣工し、「東京スタジアム」と命名された。
 6月2日、パ・リーグ全球団がスタジアムに集結。16時から盛大に開場式を執り行い、永田は席上で「皆さん、パ・リーグを愛してやって下さい!」と満員(35,000人)に膨れ上がったスタンドに向かって絶叫した。
 「大リーグのボールパークのような最先端の設備を有しながら、庶民が下駄履きで気軽に通えるような球場」という永田の壮大な構想であったが、そのモデルは、サンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地・キャンドルスティック・パークといわれている。

革新的だった光の球場

 永田オーナーの「想い」が結集した東京スタジアムはそのアイデアから当時の常識を超える革新性を備えたスタジアムであった。以下、その一部をお伝えすると、場内に設けられた6基の照明塔は当時日本では一般的だった送電塔のような無骨な鉄骨作りではなく、2本のポール型鉄塔がサーチライトを支えるという当時としてはモダンな構造だった。

 客席は、二層式の内野スタンドに設置された強化プラスチック製で作られた。エリア別に青(外野席と一・三塁側内野自由席)、黄(一・三塁側内野指定席B)、赤(年間指定席を含む内野指定席A)に色分けされ、シートピッチが広く取られていたため「ゆったり座れる」と評判だった。後楽園球場がやや狭い席でったのと対照的である。

 スコアボードに設置された大時計は当時としては画期的なデジタル表示式。スコアボードには本塁打が出ると「HomeRun」と書かれた電光看板が点灯する演出が施された。この点、今や当たり前の光景であるが、まだ第1回目の東京オリンピック前の出来事。ちなみに後楽園球場もまだ手書きのスコアボードの時代である。

 エントランス部にはスロープ式の通路を採用し、観客を地平部からスタンド下の通路に直接誘導する手法が用いられた。これは今でいうバリアフリーに通じる設備仕様であったといえる。他にもロッカールームの選手の着替え室も充実しており、のんびり椅子に座りながらビールを飲んだり、食堂も充実し、選手にも好評の球場であった。この辺りは、福岡ドームにもその理念が継承された。

 当時としては高照度の1600lxの灯に照らされたスタジアムは、周辺に未だ、高層建物が少なかった南千住界隈では、夜になるとナイター照明が放つ光が周辺に瞬く光景からしばしば「光の球場」とも形容されていた。

(写真は東京スタジアム上空写真)

巨大ボールパーク構想

 東京スタジアムは、野球以外の用途の利用も想定されていた。レフトスタンドの地下には、ボウリング場を併設。シーズンオフにはスタジアムを巨大なスケートリンクにもした。
 そのほか、レストランやデパートなどを併設したボールパーク構想もあったが、こちらは実現することはなかった。が、その後、広島東洋カープの本拠地となる「マツダスタジアム」にそのアイデアが継承されるなど、多くの影響を残すことになった。

東京スタジアムのその後

 永田オーナー肝いりの球場誕生に反して、オリオンズの戦績は芳しくなかった。1960年にリーグ優勝をするも日本シリーズで大洋ホエールズに4連敗すると、当時の西本幸雄監督を解任。チームは翌1961年からはBクラスに低迷していた。

 阪神との世紀のトレードで小山正明が加入した1964年には、チーム名から企業名を外し、「東京オリオンズ」とするも、チームは1967年まで7年連続のBクラスと低迷。客足も遠のき、経営不振が続く大映の経営をさらに圧迫することになった。

 永田オーナーが夢にまで見たオリオンズの日本シリーズ進出は1970年。チーム名は「ロッテオリオンズ」となっていた。リーグ優勝の際には、ファンやナインは、濃人監督より先に永田オーナーを胴上げした。
 日本シリーズの相手は読売ジャイアンツ。1勝4敗で敗れ、巨人の6連覇の胴上げの場所となった。皮肉にも東京スタジアムはこれが最初で最後の日本シリーズ開催となった。

 1971年1月25日。ついに永田オーナーは球団経営から撤退。東京スタジアムはロッキード事件で有名になる国際興業の小佐野賢治氏に渡る。小佐野氏はロッテに球場の買取を求めたが、東京スタジアムはホームランの出やすい球場と知られており、投手出身のロッテ・金田正一監督が強硬に反対。
 ここに東京スタジアムは閉鎖されることになり、オリオンズは本拠地を失い、1977年のシーズン終了までの6年間、「ジプシーオリオンズ」とよばれる本拠地のない時代を迎えることになった。

 なお、東京スタジアムは現在は水泳の北島康介選手が腕を磨いた荒川総合スポーツセンターとなっている。

(写真は現在の荒川総合スポーツセンター)

(文責:定年生活事務局)

 



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