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1963年のプロ野球ニュース 最大14.5ゲーム差を逆転! 西鉄ライオンズが最後の光芒を放った逆転優勝

2019/10/6 

衝撃の人事が発表されたのは1961年11月4日だった。西鉄ライオンズを日本一・3連覇と黄金期に導いた名将三原監督が去って丸2年。西鉄の西亦次郎球団社長は、西鉄復活の人事として、28歳で三原監督の娘婿の中西太に選手兼任監督、1歳年下の豊田泰光に選手兼任監督助監督、エースの稲尾和久に選手兼任投手コーチとする人事を発表した。マスコミはこれを毛利元就の故事である「三本の矢」に例えたが、首脳陣を中心選手が兼任で固める人事は当初から中西と豊田の衝突を懸念する声が少なくなかった。

 事実、1962年のペナントレースでは監督・中西太は選手・中西を出場させようとはしない。結果、豊田泰光一人に負担がかかる結果になった。豊田は130試合に出場して23本塁打を放つも、中西は出場44試合で、2本塁打。チームは、3位という結果に終わるも、中西監督と豊田助監督との間には幾度となく、あらぬ噂が立った。結果、シーズンオフに豊田泰光は移籍を志願。国鉄ライオンズに金銭トレードで移籍することになった。世にいう「豊田方式」のスタートである(※)

豊田の移籍金で3人の外国人を獲得した。

 当初は、交換トレードも検討された豊田泰光。結局は当時で5000万円という破格のトレードマネーを西鉄は手にすることになった。この金額を原資に新たにヘッドコーチとなった若林忠志を中心に外国人選手を獲得、バーマ、ロイ、ウィルソンという助っ人選手を3人獲得。「助っ人三銃士」と呼ばれた。
 この助っ人の年俸は3人合わせて980万円。渡米費用や在日費用なども含めても1500万円いくかどうか・・・。十分、おつりがくるこのトレードは西鉄ライオンズの球団経営の方針を変えることになった。

一時は14.5ゲーム差がついた・・・

 この助っ人三銃士を中止人に総合力で挑む1963年のペナントレースは春先、エースの稲尾が不調。それでも若林忠志ヘッドコーチの卓越した指導で、田中勉や阿部和春らが成長。それでも首位を快走する南海に7月12日には14.5ゲーム差をつけられた。1958年の大逆転時でも11ゲーム差。優勝は無理だろうといわれた。
 しかし、7月13日からの山笠シリーズで潮目が変わる。首位・南海に2勝1敗と勝ち越し。8月3日からの南海4連戦も3勝1敗と勝ち越す。8月18日の南海戦でも助っ人三銃士のロイの同点犠牲フライ、バーマの勝ち越しタイムリー、これで8ゲーム差。中西監督は、「昭和33年のムードが沸いてきた」と笑った。

 9月24日からの大阪球場での南海4連戦は3勝1分け。これで4ゲーム差になった。9月29日からは9連勝でついに南海を抜き去った。そこから南海もふんばり、10月17日に西鉄に1ゲーム差の首位で全日程を終了。
 西鉄は、10月19日、20日の近鉄ダブルヘッダー4連戦が残った。

 19日の第1試合は稲尾が28勝目となる勝利で17対5で圧勝。第2試合目も和田博実の活躍で3対2で勝利。翌20日は、7回まで4対0とリードされ、絶対絶命のピンチだったが、豊田の背番号7後継者・ロイが同点3ラン。最後は、5対4とサヨナラ勝ち。
 第2試合は、バーマの2ランを守り切っての2対0.ついに奇跡の逆転優勝を放った。ロイが21本、ウィルソンが20本、バーマが19本と助っ人三銃士の本塁打60本が大きかった。

・日本シリーズは4度目のジャイアンツとのシリーズになるも・・・

 日本シリーズは奇しくも西鉄ライオンズが3年連続で倒した読売ジャイアンツ。5年ぶりの顔合わせ。大逆転でのリーグ制覇。否が応にも夢よもう一度となった。が、ジャイアンツは既に川上監督の時代。バッターでは長嶋茂雄に加えて、王貞治もレギュラーに。このON砲を稲尾がどう抑えるかがポイントになった。

 平和台球場で始まった第1戦は、西鉄のエース稲尾が、好投。6対1で西鉄が勝利。第2戦は、巨人の藤田元司が好救援で乱打戦を制し、9対6で勝利。
 日本シリーズは後楽園球場に移った第3戦は、雨で1日順延し、中3日の休養で稲尾が先発するも、長嶋に一発を食らい、8対2と敗戦。第4戦は、今度は西鉄のサウスポー阿部和春が4回から好救援で対1と西鉄が勝利。これで2勝2敗となった。

 第5戦は、巨人の伏兵・高橋明が好投。長嶋茂雄に2本の本塁打、王にも本塁打が出て、ONアベック砲。巨人が3対1と快勝し、王手をかけた。

 平和台球場に戻った第6戦は、稲尾が中3日の休養で3度先発。バーマに一発が出て、監督中西も出場し、快打を連発。6対0で西鉄が快勝し、3勝3敗となった。ついに最終戦・・・。稲尾は先発か・・・。世間は注目した。実は稲尾は9月の途中から致命傷となる肩の故障を発症していた。そのため、明らかに連投は無理であった。しかし、「夢よもう一度」。中西監督は、稲尾を4たび、先発させた。

 結果は、無残だった。1回表・巨人の先頭打者柳田にホームランを浴びると、あれよあれよと4回が終わると13対2と一方的なゲームに。西鉄は6回にも5点を取られ、シリーズ最多失点となる18対4と惨敗。ここに4度目の対決で西鉄ライオンズは初めて読売ジャイアンツに屈したのである。

西鉄ライオンズ凋落を早めた優勝?

 この年、28勝を挙げた稲尾はこれが最後の20勝以上となった。稲尾は著書「神様 仏様 稲尾様」のなかでこの年の優勝が、結果として西鉄の凋落が始まったと回顧している。豊田を放出し、たまたま外国人選手が当たった。その結果が優勝となると西鉄フロントは、「この線でいける」となった。
 以後、高倉照幸、田中久寿男等黄金時代を知る選手が次々と「豊田方式」の例に倣い、他球団の若い選手と交換でチームを去った。結果、安物買いで入団した選手がその後「黒い霧事件」を起こすことになるのは皮肉である。
 もちろん、当時はこれが西鉄ライオンズ最後の優勝になるとは誰もが思わなかったのであるが・・・。

1963年日本シリーズ結果
第1戦 ●巨人1-6西鉄○
第2戦 ○巨人9-6西鉄●
第3戦 ○巨人8-2西鉄●
第4戦 ●巨人1-4西鉄○
第5戦 ○巨人3-1西鉄●
第6戦 ●巨人0-6西鉄○
第7戦 ○巨人18-4西鉄●

(文責:定年生活事務局)
参考文献:「九州ライオンズ激闘史」(2014 ベースボールマガジン)
     稲尾和久「神様 仏様 稲尾様」(2002 日本経済新聞社)

※西鉄ライオンズが経費削減を狙って始めた手法。豊田泰光が第1号ゆえに豊田方式と言われる。チームの高年俸の主力選手を他球団の年俸の若い選手と交換することで経費を浮かせた。最後は稲尾和久も移籍させようとした言われている。チーム力は大きく低下し、1967年の2位を最後にBクラスに転落。黒い霧事件もあり、西鉄は1972年に球団を譲渡することになった。



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