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1964年のプロ野球ニュース 王シフトを考案した広島・白石勝巳監督は広島監督として11年、さらに巨人V9の功労者でもある

2019/10/25 

2019年のシーズンをもって広島東洋カープを球団史上初のリーグ3連覇をもたらした緒方孝市監督が退任した。広島は下記のように、平成以降はから監督は5年刻みで交代するケースが多く、例外は達川監督とブラウン監督の様にAクラスに1回も入れなかったケースに限られる。

野村謙二郎監督(2010年~2014年)
マーティー・ブラウン監督(2006年~2009年)
山本浩二監督(1989年~1993年・2001年~2005年 優勝1回)
達川光男監督(1999年~2000年)
三村敏之監督(1994年~1998年)

一方で、11年という長期政権を築いた監督が2人いる。一人は1975年に就任し、広島東洋カープを初優勝に導いた古葉竹識監督。もう一人が広島創世期の1953年から監督を務めた白石勝巳監督である。
 そんな白石監督が、1964年5月5日。子供の日で満員の後楽園球場で史上初の「王シフト」という守備しストを敷き、世間をあっと言わせた。

コンピューター野球のさきがけでもあった「王シフト」

東京で初めてオリンピックが開催されることになった1964年。5月5日のこどもの日の巨人対広島のダブルヘッダー第2試合で後楽園球場の満員の観衆は不思議な光景を目にすることになる。4対3と広島が1点リードの7回裏、広島の守備が大きく移動した。
 三塁を守る漆畑勝久がショートの一へ、ショートの古葉竹識が二塁へ、二塁の阿南準郎が一塁後方へと大きく移動。外野手もレフトの山本一義がセンターへ、センターの大和田明がライトへ。ライトの森永勝也がラインよりへ大きく移動。
 この年、日本記録となるシーズン55本塁打を放った王はレフト方向へ流すことが少なく、ホームランの90%以上がライト方向であることをインプットした白石監督苦心の王対策がお披露目された瞬間・データ野球のさきがけでもあった。

王シフトを全く気にしなかった王貞治

 この様に左方向に打球が飛ばないことを見越した「王シフト」。当事者である王貞治氏は左方向に打球を流すという誘惑にかられたのだろうか?
「左に流そうなんて全く考えませんでしたね。・・・相手チームがどんなに右側の守りを固めたところで隙間はあるわけで野手が一歩も動けないような早い打球を飛ばせばいいんだ。そして野手がどんなにあがいても手が届かないスタンドに放り込んでしまえば文句はないだろう」

 24歳で脂の乗り切った王に何ほどのこともない様である。事実、王はこの王シフトが敷かれた7回裏に同点ホームランを打っている。

王シフトを考え出した白石勝巳監督の逆シングルが広島カープ消滅の危機を救った

 白石勝巳はもともと巨人の名遊撃手であった。巨人の監督・藤本定義によって見いだされ、三塁・水原茂、二塁・三原脩とともに、築いた黄金の巨人内野陣。藤本監督が開いた群馬県・館林市での行われた地獄の分福キャンプで白石は連日の1000本ノックを受ける。そうした過酷な練習から「逆シングル」というプレースタイルが生まれた。

 1950年に2リーグに分裂し、誕生した新生・広島は白石を譲り受ける。広島の唯一のスーパースターでお客は白石勝巳を見に来ているといっても過言ではない。そんな広島カープは1952年に消滅の危機を迎える。7球団制のセリーグが、「勝率3割未満のチームは解散もありうる」と決めたのだ。
 1950年は41勝96敗で勝率。299.1951年は32勝64敗で勝率。333の広島カープは格好のお取り潰しの対象だった。

 1952年8月12日、北海道での巨人戦。最終回、1点差に追い上げられ、巨人の打者は川上哲治。打球は三遊間を抜けるかと思われたが白石が必死に得意の逆シングルでキャッチ。1塁へ投げるように見せかけて、本塁へ走る。慌てた巨人の選手が三塁へ戻ろうとするところをタッチアウトに仕留めた。

 広島はこの白星で弾みをつけて、最下位脱出。一方で最下位になった松竹ロビンスが大洋と合併。白石の逆シングルはまさに広島カープ消滅の危機を救った。


(写真は広島監督時代の白石勝巳)

広島監督を11年、その後はV9巨人の参謀として・・・

 1953年、白石は、唯一のスーパースターとして選手兼任監督に就任。1956年まで4年間務め、さらに4年間、専任監督を務めた。その後、球団常務になるも1963年に監督に復帰。1965年まで11年間、監督を務めた。

 1968年からは球団消滅の危機を救った北海道の試合の最後の打者でもあった川上哲治に懇望され、巨人のヘッドコーチに就任。巨人は、9連覇の真っ最中で、主に作戦面は牧野茂コーチが立て、白石ヘッドコーチはそれをスタンドで観戦するのが主な役割であったがヘッドコーチや二軍監督、監督補佐と肩書が変わっても川上監督が退陣する1974年まで読売ジャイアンツの偉業、9連覇を支えた。

 広島監督としては、長い低迷期で「誰かが広島監督をやらなければ」と「誰がやっても同じ」が同時進行した11年。通算成績は581勝736敗の白石勝巳監督もある意味、広島の名監督といえるのではないだろうか?

(文責:定年生活事務局)
参考文献:『カープ50年夢を追って』(1999 中国新聞社)

 



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