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戦国武将は今より長生き? 80歳を超える長生きをした戦国武将をご紹介します

2019/11/28 

女優の沢尻エリカさんの大麻事件で放送が延期になった「麒麟が来る」。主人公は明智光秀ですが、明智光秀が1582年に主君・織田信長を本能寺で討った「本能寺の変」は歴史上の出来事として非常に有名です。さらに織田信長は自害する前に「人間50年」といいながら、敦盛の舞を踊るシーンは多くの大河ドラマでも描写をされる有名なシーンといえるでしょう。

 ところで、今回のテーマは戦国時代の年齢。織田信長は「人間50年」と言っていたように、この時代の平均寿命は50年ぐらいといわれていました。これは平均ですから徳川家康の様に75歳まで長生きする武将もいれば、30代の若さで病死する武将も多いので、一概に50歳を超えて生きた武将のことを「長生き」と断定出来るかは分かりません。
 が、80歳を超えて活躍した武将は「長寿」といえそうです。そこで、今回は現代の日本での平均寿命といわれている「80歳」を超えて戦国時代を生き抜いた武将をご紹介することにします。


 

尼子経久(1458~1541)

 まずは戦国時代の前半期に出雲地方で活躍した尼子経久。室町時代はこの地域を収めていたのは、守護代の京極氏。しかも尼子経久は一度は守護代を追われてしまします。しかし、1500年に、守護代に復帰したころには守護職の京極氏は内紛で当主の京極政経は尼子経久を頼って近江(滋賀県)から出雲へと下向。
 その後、京極政経は、孫の吉童子丸に家督を譲って死去。尼子経久は吉童子丸の後見を託されたとされますが、吉童子丸は程無く行方不明となり、経久が事実上出雲の主となります。

 その後は中国地方の大大名・大内義興と覇を争うことになります。特に、当時は安芸(広島県)の一国人領主に過ぎなかった毛利氏が大内方に願った際には、大軍を吉田郡山城に差し向ける毛利元就の知略の前に完敗。この吉田郡山城といわれる戦は尼子方が3万程度に対し、毛利方は僅か数百の兵力といわれており、この吉田郡山城の戦いは戦国時代随一の大逆転劇といわれています。

 結果、尼子氏は安芸国内での領土をほぼ失い、その翌年、1541年に尼子経久は84歳で亡くなります。
 亡くなる前年まで戦に明け暮れる壮絶な人生であったことが分かります。

熊谷信直(1507~1593)

 その同じ安芸で毛利氏と並ぶ国人領主であったのが熊谷信直です。安芸国の国人領主であり、安芸の守護を務めていた安芸武田氏家臣となっていました。1540年の吉田郡山城の戦いの前後から宍戸隆家などと毛利元就の味方をするようになります。
 その後、1542年には、大内義陸が大軍を率いて、尼子氏の領土へ遠征します。熊谷信直も大内方としてこれに参戦。いわゆる月山富田城の戦いといわれるこの戦いは、大内方の大敗に終わり、熊谷信直は、毛利元就同様、命からがら領国へ逃げ帰ります。1551年に大内義隆が家臣の陶晴賢に討たれると、毛利元就同様に大内家から独立。その後は、大内家や尼子氏との戦いにおいて毛利家中の重臣として活躍。毛利氏の中国地方制覇に大きく貢献します。

 信直は武勇に優れた勇将である一方、子煩悩で家族を大事にした信直にとって、一つだけ大きな悩み。それは娘の芳桂が凄まじく顔が醜かったことであり、娘の嫁ぎ先が見つからなかったのです。1547年、毛利元就の次男・吉川元春がその娘を娶りたいと申し込みます。
 吉川元春は、この娘を生涯、大切にし、他に側室も持つことなく、吉川元長他、併せて3人の男の子に恵まれます。結果、熊谷信直は毛利元就の娘を娶った宍戸隆家と同じように一門衆として遇されることになります。

 熊谷氏はその後も吉川元春の与力として活躍します。最終的には国衆最高の16000石を得ます。1586年に吉川元春は九州遠征のさなか、小倉城で57歳で死去します。既に嫡男は1579年に先立たれた熊谷信直ですが、1593年に86歳で亡くなります。
 かつては同じ安芸国のライバルであった毛利氏の家臣そして一門衆として最前線で戦い続けた86年でした。

・保科正俊(1511~1593)

 2000年にNHKで放送された大河ドラマ「葵徳川三代」で2代将軍・徳川秀忠のご落胤として知られる保科正之。彼の養父・保科正光の祖父が保科正俊になります。もともと、保科氏は信濃国(長野県)の高遠城を収めていた領主でした。彼の主人は、高遠頼継。しかしあまり有能ではなく、武田信玄の信濃侵攻後は、保科正俊は、武田信玄の家臣に。そして三弾正の一人に数えられる名将となります。
 一人は、攻め弾正の真田幸隆、もう一人は、引き上手な逃げ弾正の高坂昌信、そして保科正俊は槍弾正といわれる槍遣いの名人といわれています。

 武田信玄が死に、武田勝頼の時代になり、長篠の戦いで武田氏は織田信長に大敗。馬場信房をはじめ、多くの重臣をこの戦いで失いますが、保科正俊は命を失くことなく、最後まで武田勝頼を支えます。しかし、1582年に武田氏は滅亡。
 その後、本能寺の変で瓦解した旧武田遺領を巡って後北条氏、上杉氏、徳川氏の三者が対立すします(天正壬午の乱)。後北条氏に仕えた正直・昌月兄弟が高遠城を奪回したが、甲斐黒駒合戦で後北条氏が徳川氏に惨敗したのを見て、徳川方に転じます。以後は、武田旧臣を手厚く保護した徳川家康の下、徳川家の家臣として家康を支え、1593年に82歳で亡くなります。

(写真は、2代将軍・徳川秀忠のご落胤とされる保科正之像。血統上は正俊の曾孫になる)

北条幻庵(1493~1589)

 北条幻庵は、小田原に居を構えた北条早雲の末子として1493年に産まれます。幼い頃に僧籍に入り、箱根権現社の別当寺金剛王院に入寺します。これは北条早雲が、箱根権現を抑える狙いがあったとされています。

 和歌への造詣の深さは当代一流といわれ、3代目の北条氏康の娘が嫁ぐ際には、『幻庵おほへ書』という礼儀作法の心得を記した書を記しており、幻庵が有職故実や古典的教養に通じていたといわれています。
 僧侶として、あるいは北条家の外交官としての側面が強い北条幻庵ですが、武功にも優れ、武田信虎との甲斐山中合戦、上杉朝興との武蔵入間川合戦などでは一軍を率いて合戦に参加しています。1589年に「97歳」でなくなると間もなく、小田原城も豊臣秀吉に攻められ、北条氏は小田原城を開城することになります。北条幻庵あ北条家の大黒柱であったことが窺えます。

南光坊天海(1536~1643)

 川越にある喜多院の第27代住職として、500石の寺領を賜った天海こと南光坊天海。その出自は、謎が多いとされています。南光坊天海の研究書として名高い宇高良哲著『南光坊天海の研究」によれば、会津(福島県)の蘆名氏の一族である三浦氏の一族の出身であったとされています。

 

 天海が今の喜多院の住職となったのは1599年のこと。その後、天海は家康の参謀として朝廷との交渉等の役割を担います。1607年には、に比叡山探題執行を命ぜられ、南光坊に住して延暦寺再興に関わます。
 1615年に徳川家康が徳川家への従属を潔しとしない豊臣秀頼を滅ぼし、幕藩体制が確立します。徳川家康が亡くなった際、家康は「東照大権現」として神格化するのは天海主導され、徳川幕府の宗教政策を一手に担うことになります。

 さて、天海は何歳まで生きたのでしょうか?
 様々な説がありますが、上記・南光坊天海の研究によれば、1615年に当時の後陽成院から天海は鳩杖を賜ったことが記されています(11頁)。鳩杖とは宮中に功績のあったもので、80歳のお祝いとして賜るものとされています。
 天海が出した最後の書状は1643年とされており、その28年後、つまり、天海は108歳まで生きたとみるのが定説とされています。

 人間50年から考えると人生を2回生きたといっても過言ではないでしょう。

(文責:定年生活事務局)
参考文献:本文中に引用のもの

 



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