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1968年のプロ野球ニュース 築城の名人・根本陸夫監督が就任 沖縄の星・安仁屋宗八が23勝を挙げ、広島東洋カープとして初のAクラス進出

2020/1/31 

西武ライオンズの黄金時代の基礎を作り、福岡ダイエーホークスに王貞治監督を招聘し、黄金時代をもたらした男。それが根本陸夫という男である。後に西武、ダイエーの監督も務め、監督としても11年間、務めたがAクラスは僅かに1回。むしろ、根本の監督を務めたチームがその後、黄金時代を迎えたことの方が有名である。1968年は、監督に就任した根本が唯一、Aクラスを経験した年でもあった。

 ところで、根本陸夫は、広島出身でもなく、法政大学卒業後は川崎コロムビアを経て、1952年に近鉄パールスへ入団。1957年に近鉄で引退した捕手であった。そんな根本が広島カープに請われたのは、1967年。小さな大エースの長谷川良平が監督に就任し、外様コーチとして、入団。
 しかし、長谷川良平率いる広島は47勝83敗とダントツの最下位でシーズンを終えた。

広島カープから広島東洋カープへ

 広島球団はもともと親会社を持たない。そのため、負債は膨らむ一方で東洋工業の松田恒次社長に経営の出馬を求めた。もともと1962年には松田は球団社長になっていたが、広島財界の相乗りで球団人事を巡って混迷していた。
 そこで、球団経営を東洋工業に一本化することとし、1967年12月17日、松田恒次オーナー、松田耕平オーナー代行の新体制が発足。球団名も広島東洋カープとなった。その記念すべき広島東洋カープ元年に根本陸夫が監督に就任したのである。

広島東洋カープ元年は史上初の外様監督・・・

 2016年から2018年まで緒方監督の下で広島東洋カープはセントラルリーグを3連覇するなど、今やカープは人気も実力もリーグで指折りの球団となったが、発足当時、1950年から1967年までは全てBクラス。そして監督はすべてOBから選ばれていた。

 ところが、根本は大エースの長谷川良平に懇望されてコーチに就任。これだけでも広島は大騒ぎであったが、今回は監督。さらに監督は初めてという外様で手腕は未知数の男に松田オーナーはチームを託すことになった。
 根本はオーナーの松田恒次から「シーズン全敗でもかまわないからチームの基礎作りを」と要望される。根本はコーチに小森光生を招聘。さらに自身の参謀として、同じ捕手出身で後に阪急監督として名声を得る上田利治を置いた。

 次は選手である。阪神タイガースから山内一弘を獲得した。「打撃の職人」といわれ、1960年の大毎オリオンズ(現:千葉ロッテマリーンズ)の優勝に貢献。MVPに輝き、1964年に阪神のエース・小山正明との「世紀のトレード」で阪神に移籍。
 1964年の覇権奪回に貢献。しかし、その後は成績が下降し、年齢も36歳になっていた。しかし、根本陸夫は、「山内の技術と心は必ずチームの軸になる」と言い切った。後年、西武ライオンズでは大型トレードで田淵幸一を、福岡ダイエーホークス時代には同じく大型トレードで秋山幸二を獲得している。山内一弘を獲得し、軸となる選手を確立する手法はこの時から生まれたのである。

管理野球のさきがけ

 根本監督と聞くとダイエー監督時代は選手に任せっきりのイメージであったが、広島時代は違った。選手には猛練習を課した。後に管理野球といえば、やはり根本が招聘した西武の広岡監督のイメージであるが、広岡も真っ青な選手管理を行ったのである。
 そんな猛練習も山内の加入が相乗効果になった。山内一弘の野球に対するひたむきな取り組み、猛練習が若手を奮起させた。さらにはさび付いた山内一弘自身の再生にもつながり、134試合に出場し、3割1分3厘、21本塁打と、4番の働きを充分に果たした。

投手陣は沖縄の星・安仁屋宗八が躍進

 投手陣では沖縄県出身の安仁屋宗八が躍進した。1964年に米国統治下の沖罠初のプロ野球選手第1号として広島カープに入団。しかし勝利数よりも敗戦数が倍近くになる成績が続いていたが、この年は2種類のシュートを習得。強気の投球で初の2桁勝利となる23勝・防御率2.07(リーグ2位)を記録。エースの外木場の21勝を超え、一躍、勝ち頭になった。
 安仁屋のシュートは、特に巨人戦で強力に威力を発揮し、黒江、王、長嶋茂雄を3者連続三振に打ち取るなど、巨人キラーとして名をはせるきっかけとなった。

 安仁屋の生涯勝ち星数は119勝。沖縄出身の投手としては今も破られていない記録の持ち主は、今は厳しくも優しく広島東洋カープを見つめているOB会長である。

根本の遺産はその後、広島初優勝につながった

 広島を初めて3位以上のAクラスに導き、根本の名声は一気に広がった。根本は上田利治が1969年に広島を退団すると、コーチとして関根順三、広岡達朗を招聘。後に名監督となる広岡は苑田聡彦の育成を通じて、指導者のキャリアをスタート。この時期に育った選手が後の1975年の広島初優勝に繋がったばかりでなく、自身の後、1982年からは西武ライオンズの監督として広岡達朗を招聘し、西武黄金時代を築くなど、根本の遺産は大きく残した。
 そんな根本は福岡ダイエーホークスの優勝を見ることなく、1999年4月に72歳で急逝。自身の跡を継いだ王監督が優勝したのはその半年後のことであった。


(当時の広島東洋カープの所属選手をご覧いただけます)

・1968年セントラルリーグ順位表
①巨  人 77勝53敗
②阪  神 72勝58敗
③広  島 68勝62敗
④サンケイ 64勝66敗
⑤大  洋 59勝71敗
⑥中  日 50勝80敗

文責:定年生活編集部
参考文献:『球界地図を変えた男 根本陸夫』(2001 日本経済新聞社)

 



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