定年生活.com トップ» 遊ぶ » 1969年のプロ野球ニュース 金田正一・中西太・稲尾和久と大スターが軒並み・引退。稲尾和久は32歳で西鉄監督に就任

1969年のプロ野球ニュース 金田正一・中西太・稲尾和久と大スターが軒並み・引退。稲尾和久は32歳で西鉄監督に就任

2020/2/25 

「やはりお前の言うとおりだった」
電話口で消え入りそうな西鉄ライオンズ・楠根宗生オーナーの言葉が西鉄ライオンズの暗い運命を暗示していた。

黒い霧事件をめぐる黒い勢力からのゆすりに屈した楠根オーナーに再度、金銭の要求願されたのであった。そんな1969年は3人の選手が引退した。

400勝を達成した金田正一

 巨人の金田正一が前人未到の400勝を達成し、現役を引退することになった。1969年のシーズン前までに395勝を挙げていた金田正一。400勝達成までの軌跡を簡単に振り返ってみる。

 この年は開幕投手を務めた金田。相手は古巣ともいうべき・アトムズ。しかし敗戦投手になっている。
 5月になっても金田は勝てない。5月19日、金田は代打で出場。太陽の山下律夫からヒットを打ち、ノーヒットノーランを免れている。翌日、アトムズ戦に登板。ようやくシーズン初勝利となっている。6月15日の中日戦で2勝目。20日はまた代打で出場している。

 8月が終わっても金田はまだ2勝。9月21日に3勝目、10月5日の広島戦で4勝目を挙げ、399勝となった。そして、10月10日。中日戦で城之内邦雄をリリーフした金田は9回まで丁寧なピッチングを続け、最後の打者、新人の島谷金二を二ゴロに仕留めて不滅の大記録が誕生した。

 10月18日の中日戦(最終戦の1つ前)に金田は先発している。7回途中まで投げ、リードしたままで中村稔に交代した。しかし中村が打たれて同点となり勝利投手を逃す。401勝目はならなかった。
 1969年の日本シリーズも相手は阪急。金田は先発、リリーフと2試合に投げて勝敗はつかず。それでも、5年連続日本一を見届け、1週間後の11月30日に神宮球場室内練習場で引退を表明した。

「寂しさはない。すがすがしい気持ちで引退できる」

 目には涙が光っていた。400勝とは20勝を20年連続で挙げないと到達できない記録。もはや誰もその領域には到達しないであろう。

黒い霧の影響で引退した中西太

 1962年に28歳の若さで西鉄ライオンズ(現:埼玉西武ライオンズ)の選手兼任監督に就任した怪童・中西太。1963年にはリーグ優勝を達成したが、その後は、5位、3位、2位、2位と続き、1968年には5位に転落。
 さらに1968年、確定申告による納税額からの推定で中西太の最低年俸が5000万円であることが判明。V9巨人の主砲・長嶋茂雄と王貞治が共に3200万円の時代。選手・中西は40試合も出場していないのにベラボウな高年俸に風向きが悪くなった。

 さらに追い打ちをかけるように1969年には黒い霧事件が起きた。1969年のペナントレース中に、西鉄ライオンズ(現埼玉西武ライオンズ)のフロントは、自軍の選手が八百長を演じているのではないかとの疑惑を抱き、極秘に調査を開始。調査の結果、投手の永易将之が公式戦で暴力団関係者に依頼され、わざと試合に負ける「敗退行為(八百長)」を行っていたことを理由に、西鉄は永易をシーズンオフを以て所属契約の更新を行わず、解雇とすることを決定する。

 主力選手の八百長。中西は僅か6打席に留まり、10月22日、選手としての現役と監督の双方の退任を表明した。引退試合も行わない寂しい引退でった。

稲尾も32歳で現役を引退。そのまま監督に就任

 276勝を挙げ、西鉄ライオンズの4度のリーグ優勝(1956年、57年、58年、63年)と3度の日本一に貢献した鉄腕・稲尾和久も1969年に引退した。まだ32歳。稲尾氏の著書「神様・仏様・稲尾様」によると、1969年に阪急の主砲・長池徳士にヒット討たれ、旨く打たれたと感心したとのこと(201頁)。このシーズンは1勝に終わり、現役への執念は失われていた。
 
 そこに、中西監督の引退。球団は鶴岡元南海監督の招聘に動くが資金がない。楠根オーナーから「君しかいない」と要請され、監督就任。引退試合も監督就任セレモニーもない地味な船出となった。

 この年は、青年監督ブームで、阪神は村山実が33歳で選手兼任監督に、野村克也は35歳で南海ホークスの選手兼任監督に就任した。

それでもファンは稲尾西鉄を歓迎した。

 ファンは、稲尾監督の初采配となった11月22日の秋の定期戦(オープン戦)である巨人戦に29000人が押し寄せた。今と違い、秋はオフの選手交換要員の見極めのために、オープン戦をしていたのである。
 この日は、九州での読売新聞の販売拡大のために巨人が主催。西鉄の稲尾監督は3塁ベースコーチとして陣頭指揮。選手は船出を祝うべき、奮起。19対3と巨人に圧勝した。

 1969年11月22日 秋の定期戦(平和台球場 観衆:29,000人)

西 鉄 309 302 000 19
巨 人 000 200 100  3

 しかしこれでライオンズの苦境が解決した訳ではない。黒い霧事件に揺れる球団の未来は?

(文責:定年生活編集部)



定年生活ではLINEのお友達を募集しています☆以下のQRコードからお友達登録をしていただきますと、LINEだけでのお役立ち情報をお届けします。
定年生活ではLINEのお友達を募集しています