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1970年のプロ野球ニュース 入団5年で100勝を挙げ、13本塁打を打った池永正明が黒い霧事件で永久追放 夢の中の白いボールは汚れていない

2020/3/25 

1970年5月25日。衝撃的なニュースが飛び込んだ。西鉄ライオンズのエース・池永正明の永久追放が決まったのだ。西鉄ライオンズの鉄腕エース・稲尾和久の跡を継ぐ投手として、入団5年目で100勝を挙げた池永正明。チーム一の年俸11,000,000円を貰い、打っては中西兼任監督に代わって、6番を打つというまさに二刀流の活躍をしていた球界の宝は僅か23歳で突然、野球生命を絶たれたのである。
 まさにこれからというときに池永は野球を取り上げられたのである。どうやってこの炎を消したのだろうか?腰、肩、肘、指先に刻み込まれたボールの感覚はどうやって消し去ったのだろうか?その様に考えると池永正明氏の無念はいかばかりかと思う。
 まずはその忌まわしき黒い霧事件の経緯から・・・。

黒い霧事件の経緯

 1969年10月7日付の読売新聞と報知新聞が西鉄ライオンズの永易投手が暴力団にそそのかされて、わざと打たれる敗退行為を再三、行っていたと報じた。永易投手は野球賭博を資金源とする堺市の暴力団から20万から30万円の現金を貰い、わざと打たれていたのである。
 実は予兆はあった。南海戦が行われた大阪球場の試合で2イニングで7失点と酷いピッチング。南海ベンチからみても投手の投げる球ではないと話題になるほど、露骨であったと言われる(これは1969年5月30日の試合と思われる。試合は12対1で南海が勝利)。

 永易は自身の敗退行為にくわえて、同僚に対しても「三振してくれ」「KOされてくれ」と現金を渡していたという。
 報道が起きると、永易は雲隠れ。後に、西鉄球団が逃走資金を渡していたことまで判明し、楠根オーナーは球団オーナーや西鉄社長など全ての公職から辞任を余儀なくされた。

 1970年3月、雲隠れしていた永易が記者会見。「他にもやって人がいる」と告白し、事態が進展した。4月には八百長の胴元・藤縄洋孝が逮捕され、5月4日にはコミッショナー事務局に永易から実名が出た西鉄ライオンズの池永のほかに、与田順欣(よりのぶ)投手、益田昭雄投手、村上公康捕手、基満男内野手、船田和英内野手の6選手が呼ばれた。

 5月25日、罪を認めた与田、益田両投手と八百長をやっていないと主張した池永の3選手は、野球協約355条の敗退行為に該当するとして、永久追放。船田、村上両選手は11月までの野球活動の禁止。基選手の厳重注意が言い渡された。
 罪を認めている選手はともかく、八百長をやっていないと主張する池永投手の永久追放は、他の選手への甘い処分とも相まって、「エースを見せしめにした」とか「ポスト稲尾の池永に巨人が連覇を止められるのを恐れた」など根拠のない憶測が多く、飛び出される結果になった。

下関商業仕込みの投球フォーム

 池永の母校・下関商業では、投手として3期連続で甲子園に出場し、2年時の春は北海道代表として春夏通じて初めて決勝に進んだ北海高校を10-0で退けて優勝、夏は準優勝だった。当時の監督・高野繁也の指導の下、重心を低くして右ひざがマウンドの土にこすりつけるような投球フォームにした。プロ野球第1号の完全試合を達成した藤本英雄も下関商業出身であるが、いわば重心を低くするフォームは伝統のフォームでもあった。
 結果、ステップが広がり、ボールが指から離れるのが遅くなった。そのため、身体に溜が出来て、ボールはさらに早く、重くなった。まさに豪速球の誕生である。


(写真は西鉄ライオンズのエースとして活躍した池永正明。袖のワッペンをみると1969年であったことがわかる)

入団5年で99勝、13本塁打とまさに二刀流

 池永の周囲は異口同音にそのバネに驚いている。父親譲りの腕力の強さ、腰の粘り、抜群の反射神経をもっていた。100メートルは11秒8、マラソン、相撲に3種競技では日本一になっている。池永が運動を始めると体そのものが弾丸のようにはじけたのであろう。父親が漁師というのは奇しくも稲尾和久とおなじであった。やがて、運動神経の申し子は、プロ野球を標準と定めた。そして、稲尾が金属疲労で1勝も挙げられなかった1964年のオフに西鉄ライオンズに入団することになった。

 池永は1965年に20勝を挙げて、いきなり新人王になると、1967年には23勝を挙げて、最多勝に。1969年までに99勝を挙げている。入団5年までに99勝以上を挙げているのは以下の4人しかいない。

・稲尾和久(1956年入団:西鉄)139勝44敗
・金田正一(1950年入団:国鉄)100勝94敗
・鈴木啓示(1966年入団:近鉄)99勝73敗
・池永正明(1965年入団:西鉄)99勝62敗

 この様に見てみると、同時期に活躍した鈴木啓示よりも負け数が少ない。鈴木は317勝を挙げたことを考えると、あの事件がなかったら池永も300勝は無理ではなかっただろうと想像される。さらにその運動神経から打撃もよく、13本塁打を放っている。1969年にはめっきり出番が少なくなった中西太兼任監督に代わる打撃を期待され、6番を打つようになっている。まさに西鉄再生の切り札、9連覇に向けて驀進する巨人打倒の切り札であったのだ。

ニセモノのピッチングは出来ない

 1965年に池永と同じく、プロ野球に入った東映フライヤーズの大杉勝男は打席で対戦した時に、その真摯なピッチングからあんなすごいピッチングが出来る男にニセモノのピッチングは出来ないとナンバーの豪球列伝の中で紹介されている。

 永久処分から35年たった、2005年3月16日にオーナー会議で永久追放処分者他に対する復権について野球協約が改正されたことから野球界復帰の道が開かれることになり、同年4月25日に日本野球機構(NPB)は池永に対する処分を解除し、池永は35年ぶりに復権した。
 ある野球ファンが、ピッチャーで5人選べと云われたら、金田、稲尾、池永、江夏、鈴木
 3人選べと云われたら、金田、稲尾、池永
 1人選べと云われたら、池永

 そう、あの400勝投手より上だというのである。もはやそれは夢物語であるが、、、。
 しかし、池永氏の夢の中の白いボールは決して汚れていないと多くの野球関係者は信じて止まない。

(文責:定年生活編集部)
参考文献:本文で引用のもの



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