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1973年のプロ野球ニュース パ・リーグ編 2シーズン制・プレーオフ導入・西鉄・東映の身売り、球界再編騒動etc 激動の1年を振り返ります

2020/6/22 

1973年ほど、パシフィックリーグの激動の年はだったといえる。発端は、1972年のオフ、西鉄ライオンズ(現:埼玉西武ライオンズ)の経営ギブアップから始まった。黒い霧事件による主力選手の永久追放、そしてイメージの低下に苦しんだ西鉄。
 1972年のシーズン前には内々に木本オーナーが今期で撤退したいという意向が伝えられ、ロッテの中村長芳オーナーがペプシコーラ―と交渉を纏めかけたが直前に破談。そこで中村自身が、ぉってオーナーを辞任して自ら「福岡野球株式会社」を設立。大手ゴルフ開発を「太平洋クラブ」をスポンサーに「太平洋クラブライオンズ」として再出発することになった。観客動員は87万人とリーグ2位に躍進。リーグ屈指の人気チームに変わったのは救いだった。

名物オーナー大川博がいなくなった東映も・・・

 1971年8月17日に東映フライヤーズオーナーの大川博が亡くなった。1961年に水原茂監督を巨人から招聘する際に「金は出すが口は出さない」という名言で口説き落としたとされるオーナー。しかし大川の死後、息子である大川毅がオーナーに就任したが、実権は岡田茂が握った。既に映画産業は斜陽に向かい、フライヤーズは1973年1月16日、日拓グループの西村昭孝氏が買収することになった。
 実はの球団身売りは単純ではなかった。東映フライヤーズとは名乗っていたが、実はフライヤーズの所有者は東映ではなく、1954年まで、球団を所有していた東急電鉄のグループ会社「東急ベースボール倶楽部」のままであったのだ。東映はいわば休眠会社の業務委託会社であったのだ。そこで、東急は東映に球団を身売りし、東映は直ちに日拓ホームに売却するという経路をとり、2月7日に日拓ホームフライヤーズとして再出発。
 すでにキャンプも始まっており、ユニフォームも「TOEI」の部分を「NITTAKU HOME」に変えるだけのマイナーチェンジでスタートした。

お祭りは2度あったほうが良い

 巨人の9連覇の陰で客席だけがみているとさえ言われたパ・リー偽果y件。1972年の最多は後楽園を本拠地にする東映で746,500人。65試合で割ると11,484人となる。他は軒並み、30万人台で優勝した阪急でさえ385,000人で平均5923人という寂しさであった。
 そんな不人気を解消しようと発案されたのは、130試合を65試合づつに2分割。前期シーズンと後期シーズンに分けて優勝チームが別々になった場合には日本シリーズ前に5試合制のプレーオフを行うことに。
 もちろん、前期優勝だけでもビールかけはOKになり発案者の近鉄・佐伯勇オーナーは「お祭りは2度あったほうが良い」と。
 ただ、この制度、前期優勝チームが後期は手抜きをするのではないか?と危惧された。

ジプシーオリオンズが人気球団になった

 ロッテオリオンズの本拠地が無くなった。1962年に大映の永田雅一氏がポケットマネーで建設した東京球場(現在の荒川総合スポーツセンター)。大映の経営破綻で東京球場は債権者である国際興業の小佐野賢治氏が差し押さえた。あのロッキード事件の証人喚問で「記憶にございません」を連発した小佐野氏である。
 小佐野氏はロッテ側に球場の買取を要求。しかし上述の経緯で中村氏からオーナーになった重光氏はこれを拒否。東京球場はわずか10年で閉鎖になった。そこでオリオンズは130試合のうち、25試合を仙台に行うこととし、残りの105試合を遠征で行うことにした。「ジプシーオリオンズ」である。
 ロッテは仙台のほか、西京極、神宮、静岡、後楽園、川崎などを転々。この年から就任した400勝投手金田正一監督の音頭もあって94万6500人も動員するリーグ屈指の人気球団となった。

前期は南海が優勝

 前期を制したのは野村克也兼任監督が率いる名門・南海だった。前期は38勝26敗でロッテとのデッドヒートを制した。そのうち完封が11、完投が23と投手力が物を言った。7月11日、神宮球場での主催試合に53,000人を動員したロッテが日拓ホームに9対8で敗れての優勝決定だった。
 後期は西本幸雄監督が手塩に育てた長池、加藤、福本、大熊、住友、森本の野手陣に山田久志、米田哲也、足立光宏の投手陣。43勝19敗とほぼ7割のハイペースでぶっちぎった。むしろ後期の話題は3位に食い込んだ日拓ホームだった。

七色のユニフォーム?

 前期5位に終わった日拓ホームの西村オーナーは激怒し、田宮監督の更迭を決めた。併せてヘッドコーチのカールトン半田もフロント入りさせ、土橋勝幸監督が就任。さらにチームの主砲・張本勲にヘッドコーチと打撃コーチを兼任させる三足の草鞋をはかせた。
 さらには東映カラーのユニフォームも一新。7色とユニフォームと呼ばれるユニフォーㇺを披露。

しかしユニフォームが変わっても張本勲、大杉勝男、白仁天、大下剛史など東映仁侠映画さながらのコワモテぞろいの打線は相変わらずで特に3足の草鞋の張本勲は.324、33本塁打、93打点と後期3位にチームをけん引した。

史上初のプレーオフは衝撃の結果に・・・

 リーグは前期が南海、後期は阪急が制した。両チームは前期は南海が8勝5敗であったが、後期は阪急の12勝1引き分け。南海は1勝もできなかった。これを世間は「死んだふり」と揶揄した。ロッテの金田監督は「南海は捨て身で行かないと・・・。3勝1敗で阪急。」と予測した。それほど、力の差があったのだ。

 第1戦は、大阪球場でスタート。西岡ー佐藤―村上―江本と惜しみない継投で4対2で先勝。第2戦は阪急はエース・山田が登板。門田2発、ジョーンズが1発が出るもエラーも続出し、9対7で阪急が勝利。
 第3戦からは西宮球場へ。南海のエース江本のノラリクラリのピッチングにブレーブスの重量打線は「シーズンとは全然違うピッチングの仕組み・・・」と驚いた。6対3で南海が王手をかけた。
 第4戦は、南海が二戦級の投手陣に阪急打線が襲い掛かり、13対1と圧勝。しかもエース山田が満を持している。

 第5戦は、阪急のエース山田と南海の山内の投げ合いになった。9回まで0対0。9回ツーアウト。スミスがホームランを放つ。さらに広瀬叔功が続く。2対0。山田は150球で精魂尽きた。
 その裏、阪急も粘る。当銀がホームランを放つも最後、世界一の代打本塁打王・高井保弘のところで江本がリリーフ。三振に打ち取り、見事、シーズン68勝の南海が77勝の阪急をうっちゃって優勝した。
 プレーオフ後、西本監督が辞任。近鉄監督へ移籍した。まさに歴史が変わったプレーオフだった。

日拓ホームは僅か10か月で消滅

 激動は終わらない。シーズンが終わると、日拓ホームとロッテの合併報道が出た。本拠地のないロッテが後楽園球場を本拠地に出来る。さらには日拓の張本・大杉・大下にロッテの有藤・山崎らが加わる超強力打線が出来る。
 その先にはセ・リーグとの合併があったのは言うまでもない。

 しかし、ロッテの重光オーナーは合併の白紙を決定。失望した日拓・西村オーナーは1973年11月16日、東京帝国ホテルで「日本ハム」への球団譲渡を発表した。1月に東映から球団を買収してからちょうど10か月での球団売却であった。
 日本ハムファイターズの誕生であった。球団社長には三原脩前ヤクルト監督が就任。監督には中西太が就任し、親子鷹が復活した。しかし、フライヤーズの愛称亡くなった瞬間・チームの主砲・張本勲は青春が終わったという。

1973年パシフィックリーグ順位表
1位:南海ホークス      68勝58敗4引分
2位:阪急ブレーブス     77勝48敗5引分
3位:ロッテオリオンズ     70勝49敗11引分
4位:太平洋クラブライオンズ 59勝64敗7引分
5位:日拓ホームフライヤーズ 55勝69敗6引分
6位:近鉄バファローズ    42勝83敗5引分

(文責:定年生活編集部)
参考文献:長谷川晶一「虹色球団 日拓ホームフライヤーズの10カ月」(2019 柏書房)

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