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1979年のプロ野球ニュース 史上最強と言われた阪急ブレーブス5連覇の夢が潰え、リーグのお荷物と言われた西本近鉄悲願の初優勝。

2020/10/12 

プロ野球がセ・パ両リーグに分かれて30年目。1979年は変動の年だった。1978年のオフからの激動からまず振り返る。

・福岡野球株式会社が経営をギブアップ。クラウンライターライオンズは西武ライオンズとなり、本拠地は福岡から所沢に移転することになった。
・退任論のあったヤクルトスワローズ・広岡監督は球団初の日本一達成のため、一転、続投が決まった。
・日本シリーズで敗れた阪急ブレーブスは上田利治監督が5年で辞任し、梶本隆夫ヘッドコーチが監督に昇格。
・そのヤクルト・広岡監督は守備に難のあったチャーリーマニエルを近鉄バファローズに放出した。
・阪神タイガースの4番で捕手の田淵幸一を西武との4対2のトレードで放出。田淵幸一は新生・西武の顔になった。
・空白の1日事件から始まった江川事件に決着がついた。1978年のドラフトで阪神から指名された江川は阪神入団後に、巨人の小林繁とのトレードで巨人に入団することになった。
・阪神に移籍した小林繁は対巨人戦で8連勝を記録。沢村賞の受賞になった。

こうした事情が複雑に絡み合ったのが、1979年のシーズンだった。

選手主導の阪急ブレーブスの陣容

 上田監督が辞任した阪急ブレーブスは急遽、後任に、梶本隆夫ヘッドコーチが昇格した。温厚な性格で阪急一筋であることが白羽の矢がたった理由だった。西本監督が育て、上田監督のもとで全盛期を迎えていた。
 投の中心は3年連続MVPの山田久志に台頭著しい今井雄太郎、佐藤義則。打線は黄金期のメンバー、福本豊、加藤秀司に移籍組の島谷金二、若手の蓑田浩二、外国人でマルカーノにウィりアムス。4年連続日本一は逃したが、5連覇を狙うには十分すぎる戦力。
 そこで梶本阪急は1軍にはコーチはいらないとばかり、まだ現役の長池徳士を打撃コーチ兼任、足立光宏を投手コーチ兼任、大熊忠義を守備走塁コーチ兼任するという現役選手がコーチを兼ねるという異例の布陣を敷いた。

前年あと一歩で優勝を逃した近鉄はリベンジを誓った

 1978年9月23日。藤井寺球場。後期ペナントレースは勝てば近鉄の後期優勝となる試合を迎えた。4連覇を目指す阪急の名選手を育てたのは西本幸雄だ。その西本幸雄が弱小・近鉄を率いて、阪急を倒そうとするパラドックスはせつないほど悲しい。それでも近鉄でランニングの仕方から教えて丸5年。ようやく阪急に並ぶところまで来ようとしていた。あと1勝で後期優勝。
 先発はシーズン25勝の鈴木啓示。しかし大一番を前に体はコチコチ。試合後者の阪急に4対2で敗戦。阪急は残り2試合も難なく勝利し、逆転で後期も優勝し、前期も優勝しているのでリーグ4連覇が決まった。
 試合後、球場内の食堂で近鉄ナインのささやかな納会が開かれた。西本監督は1年間の労をねぎらうために全選手にビールを継いだ。その姿に鈴木は
「監督、辞めんといてくれ。俺達を見捨てないでくれ」
と涙ながらに絶叫した。

 辞任を決めていた西本監督は、近鉄本社総動員の慰留に翻意した。そして鈴木に続く2番手エース神戸年男と交換でヤクルトからチャーリーマニエルを獲得した。

マニエルの活躍で1979年前半は近鉄が独走した

 再出発の1979年。鈴木の涙が西本を支え、ナインにリベンジの決意を与えた。そこにマニエルが加わる。上田監督が去り、梶本監督となった阪急と立場が逆転。近鉄は独走し、5月29日には前期優勝マジック「18」が転倒。
 しかし、6月9日。マニエルが顎を複雑骨折するデッドボールのアクシデント。そこから梶本阪急の猛追が始まった。13試合を11勝1敗1分け。梶本阪急も西本野球学校の門下生。だからこそ、近鉄相手に情け容赦なく優勝の難しさを教えた。
 そして6月26日。近鉄の前期最終戦。近鉄が勝つか引分で近鉄の優勝。負ければ阪急の逆転優勝。相手は南海ホークス。
 1対1の8回裏。二死二塁のピンチに南海は阪急出身の坂本敏三を代打に送る。その坂本がセンター前ヒットを打つ。南海逆転!誰もがそう感じた。そこでセンター平野が猛然と飛び出し、ホームベース上にいる近鉄の捕手・梨田に向けてストレートのバックホーム!

「アウト!」

球史に残る平野執念のバックホームである。近鉄は辛うじて前期を制した。

後期は阪急が独走し、プレーオフに

 後期は、7月終了時点で阪急が、唯一勝ち越して頭一つ抜け出すと、近鉄の8連敗もあり早々と独走状態。10月5日に後期優勝を早々に決めた。阪急は前期が39勝、後期が36勝の計75勝。まさしく西本門下生の選手の獅子奮迅の面目躍如のシーズンでもあった。


(1979年10月5日 西京極球場で胴上げされる阪急・梶本監督)

 プレーオフはその西本率いる近鉄。初戦の阪急の先発は21勝を挙げた山田久志。しかし、シーズン途中から山田は近鉄を苦手に感じていた。その近鉄が相手に決まったプレーオフで山田はなぜかフォークを使った。
 しかし下手投げからのフォークは相手ベンチから握りを読まれやすい。第1戦で山田は8回を投げて5失点と完敗した。第2戦も阪急は破れ、第3戦。延長戦となった10回に中2日で山田はリリーフに立ったが、決勝点を許している。
 まさかの3連敗。リーグ史上初の5連覇は夢と消えた。勇者の時代が終わることを告げていた。

 一方の近鉄も、西本監督野球人生最高の胴上げを実現するも、広島カープとの日本シリーズであの伝説の「江夏の21球」によって日本一を阻まれた。日本一の頂を知ることなく、2004年に球団は消滅することになる。

1979年パシフィックリーグプレーオフ
第1戦:○近鉄5-1阪急●
第2戦:○近鉄7-4阪急●
第3戦:○近鉄2-1阪急●
(近鉄3勝 阪急0勝で近鉄の優勝)

1979年パシフィックリーグ順位表
1位 近鉄バファローズ   74勝45敗11引き分け
2位 阪急ブレーブス    75勝44敗11引き分け
3位 日本ハムファイターズ 63勝60敗7引き分け
4位 ロッテオリオンズ   55勝63敗12引き分け
5位 南海ホークス     46勝73敗11引き分け
6位 西武ライオンズ    45勝73敗12引き分け

(文責:定年生活編集部)
参考文献:『発掘プロ野球 名勝負 激闘編』

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