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1980年のプロ野球ニュース【後編】 長嶋監督・広瀬監督の解任 王貞治・野村克也・高木守道の引退など大物が相次いでユニフォームを脱いだ激動のオフ

2020/11/18 

1980年ほど、大物野球選手の引退・解任などが相次いだ年は少ない。監督では、巨人の長嶋茂雄監督に中日生え抜きの中利夫監督、南海一筋の広瀬叔功監督の3人が成績不振を理由に解任。

選手では868本の本塁打を放った王貞治、同じくV9ナインの高田繁、45歳まで26年間、現役を続けた野村克也、中日一筋で21年間、不動の二塁手として活躍したミスタードラゴンズ・高木守道も現役を引退することを発表した。
以下、時系列に追ってみよう。

森本球団代表更迭に動いた南海

 1980年前期は首位争いもし、古豪復活かと言われた南海ホークス。後期は団子レースに1チームだけ取り残され、8月の終わりになっても8勝28敗勝率・235とダントツの最下位に低迷。南海の川勝オーナーが8月29日、突然、森本球団代表の「更迭」と塩見球団常務の代表昇格を発表した。
 森本球団代表は、1977年のオフに野村克也選手兼任監督の解任騒動を主導。自ら「南海の大革命」と豪語したが、その後、6位、5位と成績は上向かず、川勝オーナーは森本球団代表の更迭を決めた。
 10月6日、後期を20勝43敗2分けで終えると広瀬監督は辞表を提出。その後、大方の予想を覆し野村前監督の下でヘッドコーチを務めたドン・ブレイザーの監督就任が発表された。野村解任騒動を経て生まれた広瀬政権は僅か3年で崩壊したのみならず、また野村時代に戻すことになったのである。

ミスタージャイアンツ・長嶋茂雄監督も事実上、解任

 1974年オフに川上監督から監督を禅譲された長嶋茂雄監督は「クリーンベースボール」を標榜。川上カラーを一掃するも、6位、優勝、優勝、2位、5位と日本一には届かないでいた。特に1978年にヤクルトに優勝を奪われ2位に終わったオフに水原茂元監督から「長嶋君は野球を知らない」という批判が出ると、長嶋おろしが公然と始まる。
 1979年に5位に終わり、地獄の伊東キャンプも敢行するも1980年も広島東洋カープの独走を許し、8月には前監督の川上が、青田昇、牧野茂、藤田元司、国松彰らを集めて週刊文春の座談会を開き、長嶋降ろしの波は避けられないものとなった。
 結果、球団がAクラスを確保すれば続投と公言していたものが一転、解任が決定。10月21日、長嶋監督は「男のけじめ」という言葉を残し、球団を去った。後任は、川上との座談会にも出ていた藤田元司。1975年から2年間、大洋ホエールズのコーチを務めており、他球団のユニフォームを着た人間が巨人の監督に就任する初のケースとなった。藤田監督は10月25日、王貞治に選手兼任助監督就任を要請し、王は快諾した。

王貞治の現役引退と助監督就任が決定

 長嶋監督の解任と藤田元司監督の就任が決まった巨人は激震が続く。11月4日、868本の本塁打を放ち、ONとして巨人のV9に貢献した「ビッグワン」王貞治が引退を発表した。その理由について王は、「口はばったい言い方だが、王貞治としてのバッティングができなくなったからです」と答えた。

 引退表明から4日後の11月8日にナゴヤ球場で行われたセ・リーグ東西対抗戦では、1本塁打を含む4安打と活躍し、MVPに選ばれ、引退を惜しませた。11月16日、藤崎台県営野球場(熊本)で行われた対阪神・秋季オープン戦の最終打席にて、ライトスタンドへ本塁打を放った。三塁を回ったところで阪神の選手たちがベンチを飛び出し、王は一人ずつと握手を交わした後にホームイン。これが最後の打席・最後の本塁打となった。

王・引退の翌日にミスタードラゴンズ高木守道も引退

 王貞治が現役引退、助監督専任が発表された翌日の11月5日、セカンドで7回のベストナインに選ばれた高木守道も引退を発表した。1979年にも38歳ながら打率.300(14位)と気を吐くが、視力の衰えもあって引退を決断。
 同年シーズン終了後にナゴヤ球場で行われたセ・リーグオールスター東西対抗では、同年引退した1歳上で自身より1年早くプロ入りした王貞治とともに引退セレモニーが行われた。1981年からはコーチを務め、1986年には代理監督、1992年から1995年途中まで、2012年から2013年まで監督を務めた。

生涯一捕手として26年間、現役を続けた野村克也が引退

 11月15日には、西武ライオンズの野村克也も引退を発表した。1954年に南海ホークスに入団した野村は、1965年には三冠王に輝いた。1970年からは南海ホークスの選手兼任監督に。4番で捕手で監督という3つの草鞋をこなし、1973年にはリーグ優勝を達成。
 しかし、1977年オフに上述の南海・森本球団代表主導の野村解任騒動が起き、南海を退団。「生涯一捕手」を宣言し、1978年はロッテオリオンズに移籍。金田監督が辞任すると、再び、兼任監督構想が起きるも固辞し、西武に移籍。
 最後の本塁打は1980年の7月29日の対阪急戦で放ったもので、このとき45歳1ヶ月、岩本義行の持つ最年長本塁打記録(45歳5ヶ月)に4ヶ月及ばなかった。出場試合数は3017試合まで伸ばし、この記録は2015年に谷繁元信に抜かれるまで35年間、歴代1位の記録であった。
 野村はこの後、ヤクルトスワローズ監督に就任し、打倒西武を実現し、黄金時代を築くことになる。

V9戦士・高田繁も引退

 11月17日、巨人のV9戦士だった高田繁も引退を発表。巨人9連覇時代の不動のレフトとして、三塁手の後ろにもう一人、三塁手がいると言われた抜群の守備力が持ち味。1975年に長嶋監督が就任し、最下位に終わり、日本ハムから張本勲が移籍すると、ポジションの重なる高田繁がなんと三塁へコンバート。
 正月休み返上の猛特訓で守備練習を粉うと、三塁手として定着。見事、ゴールデングラブ賞を三塁で取る器用さを持っていた。しかし、世代交代が進むと1979年頃から三塁手として中畑清が台頭。張本勲が衰えると、再びレフトに戻された。
 1980年は、81試合の出場で打率も1割8分9厘と低迷したため、35歳での引退。王と共ファン感謝デーで巨人ファンに別れを告げた。

 長嶋監督の解任、王、高田の引退と球団史上、最も大きく揺れた巨人に原辰徳が入団したのもこの1980年のオフであった。巨人は新しい時代へと向かっていった。

(文責:定年生活編集部)

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