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1981年のプロ野球ニュース 阪急・近鉄を強豪球団に仕立てた御大・西本幸雄 両軍の選手によって胴上げされての勇退

2020/12/27 

コロナウイルスに翻弄された2020年は西本幸雄の生誕100周年に当たる年でもある。西本幸雄は戦後、別府星野組の1949年には監督・一塁手・3番打者として第20回都市対抗野球大会に出場し、チームを優勝に導いた.
1950年にセ・リーグ、パ・リーグの2リーグに分裂し、パの盟主として毎日新聞社が別府星野組の選手を新選手として注目。西本を含む7名の選手が毎日オリオンズ(現:千葉ロッテマリーンズ)に入団した。

1950年、西本は、毎日の選手として公式戦に出場する。プロ入り時には既に30歳であり、選手としてのピークは過ぎていたが、1番(または2番)・一塁手の定位置を確保し、毎日のパ・リーグ優勝と日本一(日本シリーズ優勝)に貢献。1955年に引退すると、1960年に監督就任。1年目で優勝するも日本シリーズの相手は三原脩率いる大洋ホエールズ(現:横浜Denaベイスターズ)。敢え無く、4連敗で敗れ、監督を退任。

 1963年、万年灰色と呼ばれた「阪急ブレーブス」(現:オリックスバファローズ)の監督に就任。西本道場と呼ばれる猛練習で1967年から3連覇、1971年から2連覇を達成した。1974年からリーグのお荷物と揶揄された近鉄バファーロズ(現:オリックスバファローズ)の監督に就任。1979年から連続優勝を果たした。

 西本の教え子には阪急時代には米田哲也、梶本隆夫、足立光宏、森本潔、長池徳士、福本豊・山田久志・加藤秀司の「花の44年トリオ」、近鉄では鈴木啓示、佐々木恭介[23]、梨田昌孝、羽田耕一、平野光泰、井本隆、栗橋茂、柳田豊らそうそうたるメンバーがいた。彼らを一から育て、弱小球団であった阪急と近鉄をいずれも連続優勝できる強豪に育て上げた。

江夏の21球のリベンジを誓うも返り討ちに・・・

 1979年の日本シリーズ第7戦。近鉄の監督として日本シリーズに出場するも最終戦で広島東洋カープのリリーフエース・江夏豊の芸術的な投球術、いわゆる江夏の21球によって1点差で日本一を逃した。西本は過去、7度、日本シリーズに出るも一度も日本一にはなっていない。
 翌、1980年。ふたたび日本シリーズで再び、広島と当たる。前年のリベンジを果たすべく、敵地で連勝し、大阪に帰還。8度目の挑戦で宿願達成はほぼ確実と思われた。しかし、今度は大阪球場でリズムが崩れ、結局、前年と同じく3勝4敗で日本シリーズに敗れた。


(広島に再び、惜敗し、表彰式を見つめる西本監督以下、近鉄ナイン)

 シリーズ終了後、記者たちに囲まれた西本監督は「俺の闘志は消耗していない。疲れてもいない。俺は元気だ」。ちょっとはにかみながら言ったが、すでに引き際は決めていたように見えたという。さらに3連覇を目指すチームに追い打ちがかかる。

マニエルの退団

 1979年、80年の連続優勝に貢献したチャーリーマニエル。80年は48本塁打、129打点と本塁打王、打点王に輝いたこの強打者が西武ライオンズに入団したスティーブという選手と同じ待遇を要求したのである。

マニエル:「率直に申し上げます」
近鉄球団:「どうぞ」
マニエル:「スティーブ並みの待遇をお願いします」
近鉄球団:「・・・」

 スティーブが入団した西武ライオンズは1979年に誕生した新生球団。堤義明オーナーの大号令の下、豊富な資金力を背景に補強を続けていた。近鉄とは予算規模が違う。しかもスティーブは3年半という当時では最高の契約を結んでいたこともマニエルには面白くなかった。交渉が決裂した結果、マニエルは1978年まで在籍していたヤクルトスワローズに出戻りで復帰した。

 マニエルが抜けた近鉄打線はチーム打率が前年のリーグ1位からリーグ最下位に急落し、チーム本塁打は3年連続リーグトップの149本を記録するも約100本近く減り、マニエルの抜けた穴は想像以上に大きかった。結果、前期は25勝38敗で最下位。後期も29勝34敗で4位確保が精いっぱい。通年では8年ぶりの最下位に終わり、西本は勇退を決断した。

さよなら試合はかつての阪急・近鉄の選手が集合した・・・

 1981年10月4日。場所は日生球場。阪急対近鉄の前期未消化試合のダブルヘッダーが西本監督の勇退試合となった。両軍の選手は「こんな運命あるんだ」と口走った。試合は西本監督が3塁ベースコーチで陣頭指揮を執り、第1試合を6対3、第2試合を10対4で阪急に連勝した。

 通算2665試合。“闘将”のフィナーレ。照明灯が消され、マウンドに立った西本を一筋のスポットライトが照らす。

「本日をもちまして、二度とユニホームを着ることはありません。ファンのみなさま、本当に長い間、ありがとうございました」

 近鉄ベンチから鈴木、平野、井本、梨田たちが飛び出した。阪急ベンチからも福本、山田、加藤ら“教え子”たちが花束を持って駆け寄った。みんな泣いていた。それでは終わらない。感動のフィナーレは近鉄と阪急の全選手で西本監督を胴上げした。回数はリーグ優勝の回数と同じ8回。多くの野球ファンに日本一以上の栄光があることを教えてくれた瞬間だった。
 西本の意中の後任は広岡達朗・前ヤクルト監督であったとされる。広岡はヤクルト監督時代に僅か3年でセ・リーグのお荷物と言われたヤクルトスワローズを日本一に導いている。この時は球団と衝突し、監督は去っていたが、引手あまたの状態でもあった。
 広岡自身も、日本経済新聞の「私の履歴書」でこれを認めている。条件が合わず、結果、長い間、自身を支えてくれた関口清治に「一度くらい日のあたるポジションに」という名目で監督を譲った。

 近鉄監督を大阪が本拠地だからという珍妙な理由で固辞した広岡は同年・後に近鉄の最大のライバル球団になる西武ライオンズの監督に就任。ヤクルト監督時代のスタッフである、森祇晶(後の西武監督)、佐藤孝夫、近藤昭仁といういわゆる、広岡ファミリーを全員引き連れての入団であった。広岡は「1年目から日本一しかない」と宣言した。

 翌年、広岡は公約通り、西武ライオンズを日本一に導く。パシフィックリーグの主役が関西私鉄(阪急、近鉄、南海)の黄金時代から西武の黄金時代に変わる。それを決定づけた西本監督の勇退であった。

(文責:定年生活編集部)

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