1982年のプロ野球ニュース 近代野球の先駆け・投手分業制を確立した近藤貞雄率いる中日ドラゴンズがジャイアンツを土壇場でうっちゃっての大逆転優勝!
2021/1/272019年まで7年連続のBクラスに低迷した中日ドラゴンズ。1980年代初頭の中日はまさにこの低迷期に匹敵する混迷期にあった。1974年に巨人出身のウォーリー与那嶺監督の下で巨人の10連覇を阻止する優勝を達成するも翌年から2位、4位、3位と優勝に手が届かない成績が続く。すると、生え抜き監督を待望する声が高まり、42歳の中利夫監督が就任した。
中監督は西鉄ライオンズのエースだった稲尾和久をヘッド格のコーチに招聘し、周囲を驚かせたが、1974年優勝時の主力・星野仙一、高木守道、木俣達彦といった選手がみな、衰え、チーム力は大きく後退していた。
中監督は5位、3位と続き、1980年には45勝76敗という球団史上最低の成績に終わり、中政権は僅か3年で崩壊。後任には与那嶺監督の下で投手コーチを務めた近藤貞雄が就任した。先発完投から投手分業制へ・・・
近藤監督がまず手を付けたのは「投手分業制」だった。当時は巨人の江川卓、阪急の山田久志、西武の東尾修、近鉄の鈴木啓示といったエースと言われる投手は先発完投が当たり前であった。
近藤はこうした時代に先発・中継ぎ・抑えと役割を分担させる提案を行い、敢然と実行した。大正生まれでありながらプロ野球界の悪しき慣習にとらわれない時代を先取りするのが近藤のユニークな点であった。
そしてそれまでは「キャッチャーの打順はだいたい8番」という固定概念を崩し、プリンスホテルから入団した中尾孝義に中軸やときには2番を打たせると言ったチーム改革を行った。
1年目の1981年は5位に終わるも投手分業に伴って先発・中継ぎ。抑えに向くタイプの投手を見極めたのである。アメフト野球の実践
近藤が監督に就任した1981年の中日は投手陣が衰えの見えた星野仙一と新進気鋭の小松辰雄が主戦級。一方で打撃陣は田尾、谷沢、大島、宇野に中尾が加わり、攻撃陣はリーグ一というアンバランスぶり。そこに1982年からはケン・モッカが加わり破壊力はさらに強まった。
しかし、最大の宿敵・巨人は藤田監督にもと、エース・江川卓と西本聖、打撃陣では中畑清、原辰徳、篠塚利夫といった面々が充実期を迎えており、中日に巨人の付け入るスキはないというのが大勢であった。そこで、近藤監督は先発陣に台湾から来た郭源治、若手の都裕次郎、ベテランの三沢淳を。中継には1978年に抑えでありながら200イニング近く投げた中継ぎのスペシャリスト・堂上照を配置。そして抑えには実績のある鈴木孝政に加え、若手の小松辰雄、牛島和彦といった具合に序盤での大量失点には目をつむり攻撃陣が得点で劣勢を挽回するや惜しみなく抑えに回したエース級を次々に投入し、終盤の守りも守備のスペシャリストに交代させる方針を取った。これを世間は「アメフト野球」と呼び、1982年の中日は巨人や広島と激しく競り合っ
最初の天王山では3連敗。そして9月28日・・・
1982年のペナントレースは予想通り、巨人がスタートダッシュに成功した。これに開幕13連勝の快投を見せた北別府学擁する広島が追撃したが、山根和夫ら他投手陣が軒並み不振を極め、8月には優勝戦線から脱落し、まさかのBクラスに転落した。
ペナントレースは巨人と中日の一騎打ちとなったが、8月24日からの後楽園球場での最初の天王山で中日は巨人に3連敗。近藤監督はここで優勝を諦めたという。ところが1982年の巨人は何かがおかしかった。
9月上旬になるとトップバッターの盗塁王・松本がリタイア。代わりにトップを打った河埜和正も後にリタイア。さらにはエース江川が引退まで苦しむことになる肩痛を発症。9月15日には、巨人は郭と大島のエラーで3点を貰いながら、新浦寿夫が踏ん張れず、結局7対7のドローに。
決着は9月28日からのナゴヤ球場での3連戦で決することになった。この試合、もし中日が勝てば残り試合の関係で中日にマジック12が点灯する大一番となった。巨人の先発は江川。中日は三沢淳を立てた。
江川の怪物神話が崩れた・・・
試合は序盤から巨人ペース。初回に原の3ランで先制すると3回にはホワイトのタイムリーで4対0.三沢をKOすると6回、7回には中畑と淡口のホームランで6点。一方、中日はモッカと大島のソロホームランのみで6対2.残すは9回のみで江川の完投勝利は目前であった。
ここから35000人のナゴヤ球場を埋めたファン、テレビ観戦をしていたファンもここで怪物・江川の神話が崩壊するとは誰も思っていない。9回裏の中日は2番の豊田。大学時代は江川キラーと知られていた。その豊田が江川のカーブを狙いすましたかのようにレフト前ヒット。続くモッカがライト前ヒット。4番谷沢がレフト前ヒットであっという間にノーアウト満塁となる。
江川はカーブが狙われているとストレートに切り替えるが5番大島がこれを読み、センターへ犠牲フライ。6対3である。続く、宇野も続き、6対4.7番中尾が二点タイムリーで6対6になる。江川がプロ入り後、一気に4点を取られるのは初めての出来事だった。10回表、緊急登板のリリーフエース・小松が巨人打線を難なく抑える。10回裏、中日の猛攻が始まる。代打・木俣が原のエラーで出塁。ここで藤田監督が江川を諦めるが時すでに遅し。スタンドは地鳴りの様な興奮状態になり。中日の選手はベンチで肩を組みながら自軍の選手に声をかける異様な状況になった。
巨人はリリーフエース・角が出るも豊田、尾上旭という控え選手にもストライクが入らない。また満塁となり、再び大島に打順が回る。大島が打った打球がセンターに抜けた瞬間、中日にマジック12が点灯した。奇跡の大逆転。
翌日は西本を粉砕した中日。近藤監督が自ら命名した「野武士野球」軍団は10月18日の横浜スタジアムで近藤監督を歓喜の胴上げに導いた。シーズン64勝は2位・巨人の66勝、3位・阪神の65勝よりも少なかったが19の引き分けがモノをいった。まさに弱体先発投手陣を補った中継ぎ・抑えの充実が大逆転優勝の原動力になったのである。巨人黄金時代の到来に待ったをかけた近藤監督の野武士野球。しかし、翌年、燃え尽きたかのように野武士軍団は5位に転落すると近藤監督はあっさり解任が決まる。こののち、1987年に燃える男・星野仙一が監督に就任するまで中日は暗いトンネルの中を彷徨うことになる。
1982年9月28日 於ナゴヤ球場 観衆35000人
巨 人 301 001 100 0 6
中 日 000 100 104 1 7
勝利投手:小松(2勝3敗8セーブ)
敗戦投手:江川(18勝11敗)(文責:定年生活編集部)
参考文献:『熱闘!プロ野球名勝負激闘編』(2002 ベースボールマガジン社)
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