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映画「ラストエンペラー」で知られる皇帝・溥儀の生活費あれこれ

2021/6/11 

ステイホームが続く中でご自宅で映画をご覧になる方も一者るかもしれません。今回は1987年に公開された映画「ラストエンペラー」から当時の皇帝・溥儀や貴族の生活ぶりという視点から紐解いていきたいと思います。

西太后時代から急速に斜陽化した清王朝

 溥儀が皇帝になるのは1908年ですが、当時清の朝廷は西太后の絶大な権力下にありました。

西太后が生んだ9代皇帝同治帝(1856~1874)は彼女のロボットにすぎず、西大后が清の政治の一切を取り仕切っていたのです。西太后には、急加速で下り坂を転がり落ちていく清王朝を立て直そうとする理想も思想も気概もなく、贅沢三昧の日々をおくっていたのです。
 1908年、幽閉されていた光緒帝は亡くなり、その翌日には西太后もなくなります。そして、1908年12月、溥儀が皇帝に就任します。当時3歳。
 当然ながら3歳では政治は出来ませんので、父の醇親王が摂政になります。が、もともと光緒帝の弟というだけで、実際には、光緒帝の皇后であり皇室の家長的な立場にあった隆裕太后が実権を握っていました。
 結果、袁世凱に全権を委譲せざるを得なくなり、その袁世凱に退位を迫られた溥儀は1912年、皇帝を退位し、清朝はここに滅亡します。

 ここまでは映画「ラストエンペラー」をご覧になった方であれば、なんとなくご存知の方も多いでしょう。
 本稿の主題はココからです。

 溥儀は退位し、共和制の国として出発することになった中華民国。でも諸外国の共和制の国とはだいぶ異なる側面がありました。

退位の条件

 清朝は溥儀が退位する条件として、以下の6つの条件を出しました。

1.皇帝の尊号は廃止せず、中華民国は外国の君主に対する礼をもってこれを遇する
2.皇帝は年金として毎年400万両を中華民国より受領する
3.皇帝は暫時紫禁城内に居住し、後日頤和園に移住する
4.歴代皇帝の宗廟・陵は永遠に奉祀し、中華民国はこれを慎重に保護する。
5.紫禁城内の各職員は従来どおり使用できる。ただし太監(宦官)は今後採用できない
6.皇帝の私有財産は中華民国が特別に保護する

こうして中華民国には大統領にあたる大総統と宮内庁に相当する内務府が並立する統治機構になったのです。アメリカで言うとホワイトハウスに宮内庁があるというイメージでしょうか?
 いずれにしろ、フランスの様な流血が出ない革命のありようとして考え出され、結果、溥儀は紫禁城内で従来通りの生活をすることが許されたわけです。

気になる溥儀の食生活

 さて、紫禁城の中だけの清朝皇帝となった溥儀の食生活はどんな感じだったのでしょうか?

食肉     660斤
スープ肉 150斤
豚肉(ラード) 30斤
肥鶏     60羽
肥鴨     90羽
菜鶏     90羽

 ちなみに、1斤というのは600gのようですから食肉は、360キロということになります。1919年に溥儀に家庭教師として、イギリス人、レオナルド・ジョンストン(1874~1938)が紫禁城に招かれます。映画の中では宦官たちが配膳を持ちながら時折、毒味役が毒味をするシーンがあります。

あんな満漢全席以上の料理が毎日続いていたのです。上の数字はほんの一部ですが、溥儀の幼少期の食生活の一端を垣間見ることが出来ます。

清朝優待条件が破棄された溥儀。その驚きの生活費は・・・

 そんな溥儀の紫禁城での生活も永遠ではありません。1924年10月23日、馮玉祥はいわゆる北京政変というクーデターを起こします。その結果、清朝優待条件が破棄され、溥儀は紫禁城を追放されます。ラストエンペラーでも有名なシーンの1つです。このクーデターによって、清朝が中華民国から受けていた年450万元は50元に下げられることになります。

 ところで450万元とはどの位の金額でしょうか?yahooファイナンスによれば、現在ですと77,581,089円と表記されます。だいたい、7800万円くらいです。が、ときは1924年。今とは貨幣価値が違います。
 ちなみに1936年に初めて日本でプロ野球の前身にあたる職業野球が行われた際、一等席は1円でした。今が約6000円だとすると、7800万円の6000倍、ですから約46億ということになります。

 もはや国家予算レベルであったことが窺えます。


(1924年 溥儀は突然、中華民国の軍閥・馬玉祥によって紫禁城を追放されます)

 そんな金額、どうやって工面したか分かりませんが、こんな条件がいつまでも続くはずがないというのは何となくわかりますね。
 溥儀は醇親王の王宮である北府へ一時的に身を寄せます。なおこの北府と呼ばれる宮殿はその後、宗慶齢別居として知られる観光地でもあります。

 溥儀の家庭教師・ジョンストンは、関東大震災の義捐金などを通じて溥儀と顔見知りであった芳澤謙吉特命全権公使に受け入れを打診した。
 これに対して芳澤公使は最終的に受け入れを表明し、溥儀ら一行は1924年・11月29日に北京の日本公使館に入り、日本政府による庇護を受けることになります。その後、関東軍によって建国された「満州国」の皇帝として擁立されることになります。

(文責:定年生活編集部)

映画・ラストエンペラーは以下からご覧頂くことが出来ます、

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