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大坂城のある大阪より豊臣秀吉の影響が色濃く残る街とは?

2021/9/19 

豊臣秀吉の影響がある街と聞くと多くの方は大阪をイメージすると思います。豊田秀吉が築いた大阪城。もともとは、戦国時代末期から安土桃山時代初期には石山本願寺があり、一向一揆の本拠地でもありました。
 1580年に織田信長と講話し、顕如が退去すると石山本願寺も焼失。1582年に本能寺の変で織田信長が横死し、清州会議を経て、後継者となった羽柴秀吉はここに大坂城を築城します。

 現在、ある大阪城は豊臣滅亡後に徳川秀忠によって再建されたものですが。やはり大阪と聞くと豊臣秀吉の街というイメージが強いでしょう。ところが大阪より豊臣秀吉の影響が強く残る街があります。

京都に強い影響を残した豊臣秀吉

 それは京都です。

 実際には豊臣秀吉は、1585年(天正13年)には関白に任ぜられ、翌86年(天正14年)には関白としての政庁・居館として京都に聚楽第を建設して翌年の九州征伐からの帰還後はここに移り住み、更に関白を退いた後は京都の南郊に伏見城を築城して亡くなるまで伏見において政務を執っています。
 そうした政務の中心であったばかりではなく、京都の街づくりにも強い影響を残しています。

数字の少ないエリアがヒエラルキーが高い

 京都には一条から十条まで数字に条が付く町があります。京都は街ヒエラルキーが強い都市と言われています。一般に数字の小さい、一条というのがステータスが高く、十条はあまり高くないと言われています。たしかに江戸時代の京都のお城である二条城は二条にあります。
 京都の中心地は四条河原町と言い、四条。京都駅は七条と八条の間辺りと少し中心分から離れたところにあります。

 こうしたヒエラルキーは平安時代からあったと言われていますが、例えば鎌倉時代の六波羅探題は今の六条から七条の間ぐらいです。一方、豊臣秀吉が建設した聚楽第は今の二条近辺ですから豊臣秀吉がこうしたヒエラルキーを強烈に意識していたのは間違いないでしょう。

洛中・洛外の概念を変えた豊臣秀吉

 洛中洛外という言葉を身にされたことがある方も少なくないと思います。京都にはかつて葛野郡と呼ばれる湿地帯がありました。疫病なども流行っていたので豊臣秀吉は新たに洛中を定めることになります。

 結果、平安時代には「洛中」とされていた今の京都市右京区は「洛外」とされることになりました。現在では、ちょっとしたしこりが残った方も多いかと思います。現在の洛中と洛外の概念を決めたのは豊臣秀吉と言っても過言ではないでしょう。

あの歴史的な場所を動かしたのも豊臣秀吉!

 京都は寺社仏閣の街として非常に有名ですね。京都に観光で行かれた際に寺社やお城を身に請うと思われる方も多くいらっしゃると思います。こうした寺社仏閣がずっと同じ場所にあるかと言われるとそうではないケースもあります。

 例えば、「本能寺」。本能寺と言えば、1582年に織田信長が明智光秀に討たれ、その政権が終焉した場所として有名です。「本能寺の変」当時の本能寺は、京都市中京区元本能寺南町にありました。

 現在の本能寺は、1591年、豊臣秀吉の命で現在の寺域(中京区下本能寺前町)へと移転させられて出来たものです。
 そもそも寺町自体、豊臣秀吉がこの界隈に多くのお寺を移動させてできたと言われています。

 この様に見ていくと、大阪城のある大阪ではなく京都の町並みこそ豊臣秀吉が多大な影響を与えていたことが分かります。

(文責:定年生活編集部)





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