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どうする家康で阿部寛演じる武田信玄の駿河侵攻で信玄が得たもの、失ったもの

2023/4/15 

武田家と今川家は信玄の父・信虎の時代からの同盟関係だった

 「どうする家康」で阿部寛が演じる武田信玄。武田信玄のイメージが強く、常に「強い」というイメージがありがちですが、実は1416年に起きた上杉禅秀の乱で守護・武田信満が加担して滅亡。甲斐一国を統一できたのは武田信玄の父・信虎の時代でした。

 信虎は甲斐一国を統一すると、娘である後の定恵院を今川義元に嫁がせ、ここに甲斐と駿河の同盟関係が1534年に成立します。
 定恵院は、1538年、今川義元との間に長男・今川氏真を生みます。その後、娘の嶺松院・隆福院と2人の女子を生みますが、1550年に32歳で死去します。1552年には武田信玄の長男・義信と嶺松院が婚姻関係になります。いとこ同士ですね。

 この様にして、武田家は2代続けて今川家との同盟関係を続けることになります。

今川家と北条家の関係

 今川氏は、今川義元の兄である今川氏輝が北条氏との同盟関係を重視していました。が、義輝が1536年に死去し、今川義元が上述のように武田氏との関係を重視するようになると、北条氏と今川氏の関係は悪化します。
 が、尾張の織田氏を叩き、情楽をしたいと考える今川義元にとって東西に大きな敵を抱えることは得策ではありません。そこで今川義元は軍師・太原雪斎の働きかけによって既にある武田家との同盟に加えて、北条家との同盟を考えます。
 1554年、以下の3家との間でこの様な婚姻関係を結ぶことで今川、武田、北条家による三国同盟が成立します。

天文21年(1552年):今川義元の娘嶺松院が 武田信玄の子武田義信に嫁ぐ
天文22年(1553年):武田信玄の娘黄梅院が 北条氏康の子北条氏政に嫁ぐ
天文23年(1554年):北条氏康の娘早川殿が今川義元の子今川氏真に嫁ぐ

 世にいう甲相駿三国同盟が成立することになります。

桶狭間の戦いで今川義元が死去すると同盟関係に変化が

 武田(甲斐)、今川(駿河)、北条(相模)の3国同盟に変化が生じるのは1560年。桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に急襲され、死亡した桶狭間の戦いです。結果、三河の松平元康(後の徳川家康)が今川家から独立。
 さらには1563年には今川家の領土であった遠江(現在の浜松市周辺)でも大規模な国衆の大規模反乱が起きるようになり、今川氏真の統治能力に疑問符がつく様になります。丸島和洋「武田氏から見た今川氏の外交」ではこの頃から武田信玄は、今川家との手切れを考えるようになったとしています。
 
 1564年には今川義元の娘嶺松院の夫である武田義信による「義信事件」が勃発。武田義信は武田後継者としての地位を失い、1567年に東光寺で死去します。翌、1568年、武田信玄は、山に囲まれた甲斐から海を求めて駿河に侵攻することを決断。1568年12月6日に侵攻を開始します。

 武田信玄は駿河侵攻前に山県昌景等を介して徳川家康と大井川を境に今川氏の領国を分割することで合意します。さらに今川氏の家臣を事前に調略。侵攻前にすでに今川家の重臣である瀬名信輝・朝比奈信置・葛山氏元ら21名の家臣は既に武田氏と内通します。
 結果、今川氏真は今川館を脱出し、遠江に逃亡します。逃亡の際、北条氏康の娘である早川殿は乗り物を得られず徒歩で駿府から脱出しました。古書・歴代古案によれば、北条氏康は激しく憤慨し、後に越後の上杉謙信に対して「この耻辱そそぎがたく候」と書状を送ったとされています。

 駿府城落城の際、武田家の名将・馬場信春は駿府の町と今川館を焼き払って廃墟にしました。武田氏はその後、江尻に駿河支配の本拠地を置きます。現在ある、駿府城は徳川家康によって再建されたものですが、今川館がどのあたりにあったのかは分からない状態です。

駿河侵攻で武田信玄が得たこと

 武田信玄の駿河侵攻は合計3度にわたる大掛かりな遠征を行った後に駿河一国の支配を確立します。結果、内陸の甲斐国を本拠としていた武田家の領地は海(駿河湾)にも接することになりました。これは領土だけではなく、武田水軍という海賊衆を家臣団に加えることに成功したことを意味します。
 その結果、以下の様な海上戦に長けた家臣を獲得することに成功します。
・小浜景隆(安宅船1艘、小舟15艘)
・向井正重(船5艘)
・伊丹康直(船5艘)

 こうした武田水軍は1582年に武田家が滅亡するまでに存在します。こうした強力な水軍と海の出口である駿河一国を手にしたことは大きな成果と言えます。武田家と聞くと騎馬隊のイメージが強いですが、水軍もなかなかだったのです。

駿河侵攻で武田信玄が失ったもの

 では武田信玄が駿河に侵攻して失ったものは何でしょうか?大まかに言うと、近隣国との外交の破綻。詳しく言うと北条氏康との同盟の破綻と徳川家康との関係悪化です。

その1:北条氏康との同盟

 武田信玄が駿河に侵攻すると、今川氏真は駿河を失い、その後、北条氏康を頼って相模に逃れることになります。『戦国遺文』によれば、今川氏真は1569年5月23日には北条氏政の嫡男・国王丸(北条氏直)を養子に迎えて駿河・遠江の支配権を譲ったとされています。これをもって今川家は滅亡したとされています。
 そして大事なことはこれを機に北条家は武田家との同盟を廃棄し、上杉家と同盟を結ぶことになります。1569年6月9日のことでした。『上杉家文書』によれば、同盟の条件は以下でした。

条件1:8月15日の放生会以前に、謙信が武田攻めのため信濃に出陣する。
条件2:氏政の子・国増丸(後の太田源五郎)を謙信の養子にする
条件3:謙信が上野、及び武蔵の内岩付城他数箇所を領有する
条件4:足利義氏を古河公方とし、謙信が関東管領を務める。

 このうち条件2は同盟締結において氏政が国増丸を手放すのを拒んだため、謙信の養子になるのは北条三郎のちの上杉輝虎になります。この同盟で武田信玄は北に上杉、東に北条という巨大な敵に囲まれることになります。また武田信玄は1569年に北条氏康と直接対決をすることになります。

その2:徳川家康との同盟

 武田信玄は駿河侵攻に当たって、徳川家康と同盟を締結します。同盟では大井川を挟んで、今川領土を分割するという内容でした。しかし、武田信玄は、駿河征伐中の1568年12月に秋山虎繁を使って遠江に進出します。
 これに徳川家康は信玄に誓詞を提出し、信玄は家康に血判状を提出していますが1570年に徳川家康は武田信玄との断交を決断します。
 1572年には三方ヶ原で武田信玄と徳川家康が正面衝突し、武田軍が圧勝。しかし、信玄が没し、1575年に武田勝頼と織田・徳川連合軍が長篠の戦いで激突するなど、この武田・徳川の手切れは武田家滅亡への大きなターニングポイントになっといえるでしょう。

古文書を読むことで歴史が分かります

 いかがでしたでしょうか?武田信玄の駿河侵攻をめぐって実に多くの出来事が起きていたことが分かります。またそうした出来事が多くの古文書に残されていることも分かります。
 そんな古文書読めるようになったらさらに歴史の奥深さが分かるようにかもしれません。
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 の2つが有名です。
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 講座一番の魅力は、歴史上の偉人たちの古文書を題材にしていることです。

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 是非、古文書が読めるようになって歴史の奥深さやその瞬間を体感してみませんか?

(文責:定年生活編集部)
 



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