定年生活.com トップ» 学ぶ » 日本国憲法と象徴天皇制その2~ポツダム宣言の受諾と憲法改正の関係 松本4原則とは?

日本国憲法と象徴天皇制その2~ポツダム宣言の受諾と憲法改正の関係 松本4原則とは?

2019/7/12 

明治憲法のままで新しい政府の樹立は可能?

 日本政府は当初、ポツダム宣言の受諾は、=明治憲法の改正ということには直ちにはつながらず、同宣言の趣旨に合致する新しい自由で責任ある政府の樹立は可能という見解でした。
 しかし連合国側の解釈によれば、ポツダム宣言12項はバーンズ回答と併せて解釈する場合、日本に国民主権の原理の採用を要求する意味を含むものであったことが明らかにされています。
 またポツダム宣言10項は「言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重」の確立と同時に「民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障壁」の除去を求めているので、明治憲法をそのままにして連合国側の要求を受け入れることは事実上、不可能になった。ここに憲法改正が不可避となったのです。

連合国側の憲法改正示唆と日本国側の対応

 1945年10月4日、東久邇宮内閣の国務大臣であった近衛文麿は連合国のマッカーサー元帥と面談した際に、明治憲法の改正の「示唆」を受けている。ここでいう「示唆」とはかなり強い命令と捉えて良いでしょう。
 翌日、東久邇宮首相が退陣すると、10月11日には、みずから内大臣府御用掛に任じられ、佐々木惣一を御用掛に迎えて調査を開始することになりました。これが日本側の第一の対応です。

 1945年10月9日に、幣原内閣が発足すると、幣原首相は、10月11日、最高司令官から明治憲法を自由主義化する必要がある旨の示唆を受け、10月25日に国務大臣・松本烝治を長とする憲法問題調査委員会(いわゆる。松本委員会)を発足させた。これが日本側の第二の反応になります。

松本4原則

 松本委員会は、10月27日から1946年2月2日まで、合計20回以上に呼ぶ会合を持ち、調査活動も行いました。その過程の中で、松本大臣は、1945年12月8日、衆議院予算委員会で私見として明らかにした憲法改正4原則が憲法制定史上、特に注目されます。

原則1:天皇が統治権を総欄せられるという基本原則には何らの変更はない。このことはわが国の指導者のほとんどが一致している。
原則2:議会の議決を要する事項を拡充すること。その結果、大権事項をある程度、削減する
原則3:国務大臣の責任を、国務の全般にわたるものたらしめ、同時に国務大臣は議会に対して責任を負うものたらしめること
原則4:人民の自由及び権利の保護を拡充すること。すなわち、議会と無関係な立法によって自由と権利を侵害しえないようにすること。また、この自由と権利の侵害に対する救済方法を完全なものとすること

 ここまではよく聞いたことがある内容かもしれません。すこし、具体的に見ていきます。松本第1原則は、明治憲法第4条の「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ 」という原則を維持するということです。終戦以来の最大の関心事であった「国体護持」の基本的な立場がここにみられます。
 第2原則については、従来の大権事項と呼ばれる議会のコントロールが及ばないもの、例えば外交大権・軍事大権・官制大権と呼ばれる議会の権限が及ばない事項が多くありました。こうした分野にも議会の権限をできるだけ拡充させようとする趣旨です。

 第3原則は第2原則とも重複する内容です。「国務大臣の責任を、国務の全般にわたらしめるもの」というのは統帥権独立の制度を廃止するということを意味します。さらに国務大臣の議会に対する責任というのは、明治憲法下の内閣を理解しないといけないでしょう。
 明治憲法下では内閣が一体となって天皇の国事行為に対して「助言と承認」を行うというわけではありませんでした。明治憲法下では大臣が所管事項について単独で天皇に助言をすることが出来ました。その結果、内閣は憲法上の制度ではなく、憲法外の制度として発達します。実際にはこの内閣が天皇の行政権全てを輔弼することになります。但し、国務大臣は天皇に対してのみ輔弼責任を負うだけで議会に対する輔弼責任はないので、内閣は政党内閣である必要もありませんでした。
 この第3原則は、輔弼制度は維持しつつも議会に対する責任を明確化し、政府に対する民主コントロールの思想を取り入れようとするものでイメージとしてはイギリス的な議会政治を念頭に置いていたともいえるでしょう。

 第4原則は、法律の留保の制度を全面的に残すものであり、人権尊重を要求するポツダム宣言の趣旨を実現できるかどうか、後に強い批判の集まった内容でした。

松本案の成立と総司令部

 上記の松本原則に基づいて松本案として、甲案と乙案が作成されました。
 甲案は、
①「天皇は至尊にして侵してはならない」
②軍隊の制度は残す。統帥権の独立は認めず、統帥権も国務大臣の輔弼の対象とする。
③緊急勅令等については帝国議会常置委員の諮詢を必要とする。
④宣戦、講和及び一切の条約について帝国議会の協賛を必要とする。
⑤日本臣民は、すべて法律によらなければ自由及び権利を侵されない
⑥貴族院を衆議院に改める。
⑦法律案については衆議院の優越性を認める
⑧参議院は予算の増額修正が出来ないこととする
⑨衆議院で各国務大臣に対する不信任を議決したときは、解散のあった場合を除くほか、その職にとどまることは出来ない。
⑩憲法改正について議員の発議権を認める

 一方、乙案は、
①大日本憲法を日本国憲法に改める
②臣民を国民に帝国議会を国会に改める
③軍隊に関する記述を削除する
④人権規定に教育を受ける権利や勤労の権利義務を盛り込む。
 など、甲案に比べて、自由主義的要素の強いものでした。

 ところが、事件が発生します。この松本甲案・乙案が2月1日に毎日新聞によってスクープされ、世間に知られることになったのです。結果、総司令部は憲法改正問題に急遽、対応をせざるを得なくなり、急転直下、新憲法の制定へと向かうことになります。

(文責:定年生活事務局)
参考文献:芦部信喜「憲法学Ⅰ 憲法総論」(1992 有斐閣)



定年生活ではLINEのお友達を募集しています☆以下のQRコードからお友達登録をしていただきますと、LINEだけでのお役立ち情報をお届けします。
定年生活ではLINEのお友達を募集しています