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連合国総司令部が憲法改正にあたって「象徴天皇制」を急いだ理由

2019/9/6 

前回までやや詳細に、日本国憲法の草案についてその経緯を紹介してきた。ここで多くの方が疑問に思うのは、なぜ、連合国即ちマッカーサー元帥が草案の作成を急いだのか?ということである。これは誰しもが抱く当然の疑問であると思われる。この点、実は資料的な裏付けでほぼ一致していることがある。

「極東委員会」の活動前には・・・

 当初、マッカーサーは天皇制を民主主義と両立しうる範囲内で継続することが日本の占領政策を進めるうえで必須の要件と考えていた。ところが、極東委員会のメンバーにソ連とオーストラリアという2か国が天皇制に強硬に反対していた。くわえて、天皇の戦争責任の問題も沸きあがっており、1946年2月26日に活動を開始する極東委員会が発足する以前に憲法改正の大綱を決める必要が生じたのである。

松本案を原案とすることは不可能に・・・

 ここで誤算が生じた。日本側のイニシアティブによる改正案内容(松本案)は総司令部の期待を裏切り、あまりにも保守的であったため、松本案を原案として討議することは、かえって日本に対する急進的な改革要求の声を強くする可能性があり、かえって占領政策の遂行に支障を来すおそれがあった。
 そうした事情が、急遽、総司令部自らの手で原案を作成するという政策をとるにいたった最も大きな理由であると考えられる。

 法制官僚で、1947年に発足した片山内閣で内閣法制局長官を務めた佐藤達夫も以下の様に語っている。
「むしろ真の理由は、マッカッサー元帥が当時活動を開始しようとしていた極東委員会に先鞭をつけて既成事実を作り上げてあいまおうとしたものであろうとする見方が有力である。極東委員会はこのマッカーサー元帥の行動について大きな不満を持ち、このことによってマッカーサー元帥と極東委員会との間に摩擦があった」ことはアメリカ側の文献でも示されているとしている。

 同種の見解は法制局長官として、日本国憲法の立案にも携わった入江俊郎からも示されている。即ち、「マッカーサーは・・・・天皇制の存在を否定してしまうということは、結局、日本の国のため、また世界平和のためによくないということをマッカーサーは信念的に持っておられたようであり、こういう情勢に対応するためには満州やソビエトのほうで色々な案を出さない前に、・・・マッカーサーの手元で早く一応の案をまとめてしまうこのとのほうが有利である考えたようである」

 との発言がある。

 もっとも草案の起草は、1週間という驚くべき短期間に行われたが、実際には、1945年の段階から総司令部では憲法問題に関する研究と準備がある程度、進められていたという事実も忘れてはならないだろう。
 一方で、先述したように1946年2月13日に持ち出された「天皇の身体」云々の発言は、いわゆる脅迫行為ではないのか?という問題を生じさせた。

 この点は、いわゆる「押しつけ憲法」ともかかわる問題である。

 次回は、この問題について検討したいと思う、

(文責:定年生活事務局)
参考文献:芦部信喜『憲法学Ⅰ 憲法総論」(1992 有斐閣)



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